長崎 五島 世界遺産巡り(潜伏キリシタン関連遺産)
五島観光協会さんの「キリシタン物語 奈留島、久賀島ツアー」に参加しました。集合場所の福江港に到着奈留島の江上天主堂久賀島の牢屋の窄記念教会・旧五輪教会を巡るツアーで地元ガイドが同行1回の参加者は最大定員8名~9名の為直ぐに予約が締め切られる人気ツアー10月1日の時点で10月分の半分以上が予約で満席福江港から奈留島から久賀島から福江港のコース奈留島へは大型フェリーで移動40分で奈留島へ到着、大型タクシーで移動最初の目的地は奈留島の世界遺産ガイダンスセンター潜伏キリシタン関連遺産の説明や江上天主堂に関する資料が展示されている江上天主堂の屋根に使われていた瓦奈留島の江上集落は18世紀から19世紀にかけて大村藩であった外海地区から移住してきた人々によって開拓された集落。(潜伏キリシタン)明治に入り信仰が自由になると集落全体でカトリックへ復帰しました。最初は小さな小屋でミサを行っていたが1918年にきびなご漁でためた資金で江上天主堂を建立しました。現在の江上集落の写真民家も学校などもなくなり江上天主堂のみ残されているかくれキリシタンとは明治時代に入り宗教の自由となった後も潜伏キリシタン時代に行ってきた信仰を続けた人々の事。自由化になった後もカトリックに復帰せず神社やお寺(仏教)を信仰する人も存在した地域によって信仰に使われた道具も違う信仰に使われた現存する信心具ガイダンスセンターから車で10分江上集落へ到着集落の跡は綺麗に整地されて住民の姿や民家は確認できない。奈留島に移住した人々はキリスト教の信仰の為に敢えて人が住みやすいエリアから離れた厳しい土地を探し開拓しました。今となっては不便な立地の為、住民は他の地域に移りました。天主堂だけが残され、週末のミサなどに集落の人々は集まるそうです。世界遺産の江上天主堂1873年の解禁後に集落の人々はカトリックに復帰1918年きびなご漁でたくわえた資金で天主堂が建てられる教会建設の名工、鉄川与助によって設計施工された写真には写っていないが多くの観光客が大型バスで訪問しています、島の貴重な観光資源。教会内の見学も可能、町の職員かボランティアの方が2名厳しく入館者をチェックこの日は雨だったので濡れたままの衣服を綺麗に拭いて入るように全員指導される湿気対策で高床式になっているのは大きな特徴建物の裏側十字架の飾り晴れ間には光の十字架が浮かぶ続いて奈留島から久賀島へチャーター船で移動久賀島の旧五輪教会に到着集落の波止場から上陸この集落も民家はわずかな漁業の街島の中心部から車で来れるような大きな道もない世界遺産の旧五輪教会堂国指定重要文化財旧五輪教会は久賀島の別地域にあった浜脇教会の建て替え時に五輪地区に譲りうけた教会明治14年に建てられ昭和6年に現在の場所に移された五輪地区の信仰のよりどころでしたが、老朽化の為昭和60年すぐ横に五輪教会が新築され役目を終えました。その時点で解体の話もありましたが、信者やそれ以外の多くの方々の協力により解体の危機を逃れ現在は五島市の所有に代わり建物の保存管理・一般公開されています。外から見ると木造の和風建築ですが内部は本格的な洋風教会の造り窓からは綺麗な入り江波が高い時は潮が入ってくるくらいの距離ゴシック風の祭壇聖ヨセフの像偶然か大きなヤモリが聖ヨセフの後ろに隣に建っている五輪教会現在信徒たちはこちらを使われている久賀島のキリシタンたちは明治の宗教自由化以降カトリックに復帰し各地で教会を建てた教会全景次の団体客がやはり海からボートで上陸タクシー(車)の合流ポイントまで歩きます山道を歩くとこ10分タクシーに合流久賀島の中心部にある牢屋の窄(殉教の地)にやってきました牢屋の跡明治元年に久賀島のキリシタン200名が捕らえられ12畳ほどの狭い牢に押し込められた。畳1枚の中に17人といゆ狭さで、横になる事も出来ず排泄もその場で行った想像を絶する惨状であった。キリシタンたちは8カ月の間閉じ込められ飢えや病い拷問の為39名の命が失われました。出獄後に3名を加えると42名のキリシタンが命を落とした場所。牢やは見晴らしの良い高台に建てられた対岸には仏教徒や神道の方々が住んでおり見世物にさらされていた。明治時代に入ってもキリシタンたちの自由はなかった。宗教の自由化は外国の圧力により明治6年にようやくキリスト教が解禁される。牢屋の窄記念教会殉教者を顕著する為に昭和44年に教会が建てられその後老朽化により現在の場所に昭和59年に建てられた教会の横の高台には牢やの監視所跡殉教者の石碑牢屋はこのような建物であった教会の下には無人販売所島特産の椿油と石に書かれた椿の絵久賀島から福江港に帰ります(定期船)定期船ですが下には海中が見えるようになってる(観光船を使用)4時間ぐらいのツアーでしたが内容が充実しています各教会は不便な場所にありますので個人手配で行く事は困難です、島在住のガイドさんも同行するので色んな情報を聞くこともでき貴重な体験でした。分かりやすい漫画がありました長崎県世界遺産課 資料参照カトリックのイエスズ会所属のザビエルが鹿児島に上陸全てはここから始まった。ザビエルは鹿児島・平戸・山口・京都・大分経由で布教活動実施。九州の有名なキリシタン大名この時代に4人の少年を天正遣欧使節団としてヨーロッパに派遣。帰国後に印刷機械や楽器など高度な文明、文化を伝え自らも司祭となり布教活動を行うが秀吉のキリスト教弾圧が始まる。キリシタン大名の許しを得て布教活動が活発になる秀吉による宣教師の追放令秀吉による長崎西坂での26人聖人殉教事件家康による禁教令と鎖国体制の確立潜伏キリシタン時代の活動幕府や地方の役所による取り調べもあった厳しい所ももちろんあったが、地方の役人も自分の任期中にキリシタンを検挙したくなかったので、「宗門心得違い」として抜け道を作って大事にならないようにした。大村藩から五島藩に多くの移住者(キリシタン)が移り潜伏活動を続けた。キリシタンだけの集落を作るため厳しい条件の土地を開墾し集落を形成した。明治に入り宣教師が再び入国多くの潜伏キリシタンがカトリックに復帰した明治に入ってもキリスト教は禁止されており各地でキリシタンへの弾圧が行われた。外国の圧力により明治6年にキリスト教は解禁される、これ以降各地で教会は建てられた。