「鶴橋」 時空が交錯する街
2月8日9日の土日を使って、大阪に行ってきました。まず向かったのが「鶴橋」です。すでに25年も前になります。以前勤めていた木質建材メーカーで、カタログの製作などを担当していたのですが、その際、大阪で大型のルームセット撮影を行うことになり、それに立ち会いました。その際に業者さんと一緒に行ったのが鶴橋の焼肉屋さんだったのですが、駅を降りて焼き肉屋までの間に見た「鶴橋」インパクトが強く、ずっと気になり続けていました。細い路地に並ぶ、キムチのお店や、チマチョゴリを飾った服飾店・・・。「ここは一体どこ?」と、頭がバグるくらいのインパクトでした。以来、再び行ってみたいと思っていたのですが、大阪に行く機会がなかなかなく、やっと今回実現した次第。実際に行ってみると、想像を超えた異世界でした。まず、思った以上に範囲が広く、まるで迷路です。適当に歩いていると、もとの場所に戻ることも困難なくらいです。商店街の道は細く、すれ違う際にもよける必要があるほど。そして、その細い路地の多くには屋根がついています。アーケードというには、少々安っぽく、古い。倉庫の中のような、古い屋根は、いったいいつからあるのだろうか?調べてみると、鶴橋商店街のルーツは、戦後の闇市だとか。鶴橋はJRと近鉄M地下鉄が交わる鶴橋は交通の要衝でもあり、比較的被害も少なかったことから商店が集まり、現在の商店街の原型ができたのだとか。鮮魚の市場もあり、豚足が固まりで店頭に置かれていたり、もちろんキムチの店もたくさん。服飾店が並んでいる一角があったり、チマチョゴリが飾ってあったりします。こちら、鶴橋にあった顔出しパネル。韓国に行かずに、鶴橋で済ませた、という内容ですが、最近では、韓国にもこんなディープな商店街がなくなって、韓国人観光客も多いとか。闇市がもととはいえ、日本中に闇市はありました。どうして鶴橋がディープな韓国カラーの商店街になったのでしょうか?1920年代、済州島と大阪の直行便ができて、韓国からの出稼ぎ労働者がたくさん大阪にやってきました。特に鶴橋周辺のエリアには韓国からの出稼ぎ労働者が多く住んでいたのですが、終戦時に祖国に帰らずにそのまま住み着き、さらに、1948年の済州島事件という、李承晩による島民虐殺事件が発生し、多くの済州島民が縁故を伝って鶴橋周辺にやってきました。結果、韓国出身者の密度が極めて高くなり、闇市をベースに韓国人の商店街が形成されていったようです。そのため、肉の陳列も日本とは一味違います。戦後間もなくの状態が、ほとんどそのまま残っているのではないか、と思われる雰囲気。しかも、日本にいるとは思えないほどの強い、作り物でない韓国感。「時空を超えた」という表現がぴったりする異空間が、普通に大阪のど真ん中にあるという驚き。ということで、商店街の中にあった「アリラン食堂」というところで昼食を食べることに。定食には、こんなおかずが8品ついてきます。好き嫌いの多い私としては、まあまあ苦手なものもありましたが、韓国の定番料理なのでしょうね。注文したのは、8日のおかず付きの「サムギョプサル定食」海鮮チジミ大きなビンに入った朝鮮人参。火事が起こったら大変だろうなあ、とも思いましたが、防災上の観点とか、老朽化とかを考えると、この商店街も再開発されてしまう可能性も高いように思います。ぜひ、この商店街のあるうちに一度散策することをお勧めします。商店街一角で見つけた、シャッターに書かれた印象的な絵。これは何なのでしょうね。鶴橋商店街 絶対おすすめ。