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カテゴリ:小説
生徒の母親と不倫している小学校教師が片思いしている小説家志望の女友達が年上の韓国人女にレズしようとして失敗して失踪したので探す話。 ●あらすじ Ⅰ:都内の私立大学の文芸科のすみれは小説を書くのに専念するために大学を辞めて、週末にぼくのアパートに原稿を見せに来る。すみれはいとこの結婚式でアラフォーの既婚の韓国人のミュウに会って恋をして、ミュウがビートニクをスプートニクと間違えたので「スプートニクの恋人」と呼んでいることをぼくに話す。 Ⅱ:すみれの文章。わたしは身軽になってミュウに寄り添うために小説を書くのをやめて思考をやめた。わたしは死んだ母親の夢を見る。わたしはミュウの14年前の出来事を尋ると、ミュウは25歳の時に遊園地の観覧車に取り残されて、双眼鏡で自分の部屋を見ると、自分とフェルディナンドがエッチしていて、翌日ミュウは傷だらけで観覧車にいるのを救助されて白髪になっていた。わたしはこちら側のミュウとあちら側のミュウを両方愛していて、自分が分割されるように感じる。 ●戯れに焼いたピザみたいな感想 語り手の「ぼく」の一人称で、ぼくがすみれについて語る形式。ぼくはすみれのたった二つ年上なのに上から目線ですみれの小説の才能をほめるというピザばかり食ってるアメリカのデブみたいな尊大な態度で、そのうえ平然と生徒の母親と不倫するサイコパス教師で、冷凍食品のピザ風の食パンみたいに全く魅力がなくていけ好かない。一人称の小説で語り手が嫌われるとその小説はもう失敗していて、ピザ窯の温度を間違えてピザにどんな具を乗せようが全部焦がすようなもんである。ぼくは小学校の教師としてのリアリティがない量産型ワタナベで、冒頭からノルウェイの森の自己模倣の既視感があって、食べ残しの歯形がついたピザを焼き直したようでもう読む気がしない。 さてあらゆるピザにチーズがのっているみたいに、この小説にも村上春樹の小説の典型的な特徴がみられる。 ・女性に好かれてほいほいエッチするけど世間ずれしていて孤独なやりちん。 この小説の登場人物たちは現実の男性と女性としてのリアリティはなく、村上春樹の小説におけるヒロインはどういう存在なのかというと、ぼくへの供物である。ぼくはいろいろな女をとっかえひっかえしてきたやりちんだけれどほいほい股を開くような女が相手ではぼくの存在理由としては不十分なので、ぼくとのセックスを拒む特別なヒロインの精神的存在を吸収してようやくアイデンティティがあやふやなぼくの存在理由が正当化される。これは男女の存在が融合するメタファーとしてのセックスで、普通の妊娠とは逆で男の存在に女の存在を受肉することでぼくの生存理由が生まれるので、ぼくの存在理由を裏付ける相手は男ではなく女でなければならない。だからぼくは女友達やセックス相手はいるけれど、男友達はいないし、父親も兄弟もいない。精神的な存在が融合して肉体的な存在が必要なくなるとヒロインは消失して、性的不能で不完全な肉体をこちら側の世界に残さない。ぼくは自分が直接挫折することなしに社会になじめないヒロインの挫折を踏み台にして、特別なヒロインを喪失することでどれだけヒロインが必要だったのかを自覚して、かわいそうなぼくを乗り越えて成長するわけである。まるでいろいろな味を取り込んでようやく一人前になるクワトロピザのようなもんで、ぼくはおしゃれで特別なクワトロピザを気取ってシーフードピザやテリヤキチキンピザとほいほい合体してきたけどそれでは物足りなくて、マヨコーンピザとも合体しようとしたけどマヨコーンピザは単品メニューから消えてしまって、やっぱりクワトロピザにはマヨコーンピザが必要だったのだと自覚することで何味なのかあやふやだったクワトロピザのアイデンティティが確立するのである。 ★★☆☆☆ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.03.31 06:47:54
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