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2009年02月01日
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カテゴリ:韓国関連
太平洋戦争が日本の無条件降伏という形で終わり、朝鮮半島は思いがけない形で独立できるという雰囲気になったが、朝鮮半島の人々と戦勝国のアメリカやソビエトの考えとは違っていた。

世界は朝鮮半島が自主独立をするには何もかも未成熟と見ており、5年半国連が朝鮮半島の社会をリードし信託統治をしながら朝鮮の社会的成長を図ろうという動きがあった。


それに対し、共産主義陣営も民主主義陣営も当初は反対したが、程なくしてソビエトの意向を受けた共産主義陣営は信託統治を受け入れる、という流れに変わる。

ここでも北と南の対立軸が出来てしまい、徐々に内ゲバ的な小規模の内乱が頻発するようになった。

体制は北の共産主義陣営が、金日成(キム・イルソン)を中心に権力争いが早期に終結し、ソビエトの衛星国としての体制を固め、親日派や地主階級、共産主義に反対する者たちへの粛清・・・つまり大殺戮が起き、共産主義を嫌う多くの人々が南へ逃げてきた。


38度線の南側では、太平洋戦争が終わって5年間、共産主義者と民主主義者との争いが絶えなかったが、徐々に民主主義陣営が優位に立ち始め、南側の共産党から名前を変えた朝鮮労働党(共産党が非合法になったため党名を変えて活動していた、北朝鮮国内での党名変更の影響もあった)の幹部達は次々と北朝鮮に逃げていくという状況になった。


そして運命の1950年6月25日を迎える。

南側を社会のかく乱で共産主義に導けないと悟った北朝鮮は、武力での征服を目論む。
南では前年より米軍の駐屯をこころよく思わない政府関係者の働きかけで、米軍はほぼ全勢力を日本などに撤退していた。

韓国軍は戦車も空軍力も何もない状態で北朝鮮に攻め込まれることになる。

話を蒸し返すようだが、ここでも南の政府高官たちの甘い考えが事態を深刻なものにした。
秀吉の時、清の時と同じように「同じ民族の北朝鮮が南を攻めては来ないであろう」という自分たちの都合だけで楽観的に考えた事が悲劇を生む。


戦力がほぼないに等しい韓国側は、戦争が始まって3日目にはソウルを放棄する事態になり、イ・スンマン大統領は自分たちが逃げる時、多くの避難民でごった返す漢江に架かる橋を自分たちが通った後爆破し逃げた。

一時期は釜山とテグの南部地域だけに追い詰められ、韓国は滅亡の一歩手前までになったが、アメリカを中心とする国連軍が参戦した事により戦情は一変した。

仁川上陸作戦で北朝鮮の補給路を断った国連軍は、勢いに乗り朝鮮半島をほぼ制圧し戦争は南側の勝利で終わるかに思えたが、ここで中国がこの戦争に参戦する。


中国軍は朝鮮族の義勇軍という触れ込みであったが、実際は中国が誇る最強の部隊を投入してきたのだ。

これにより38度線を挟んで戦争はこう着状態になり、韓国を除いた国連軍と北朝鮮との休戦協定が結ばれ南北分断が確定した。
(この時にも韓国の大統領、イ・スンマンは戦争の継続を訴え、国連軍による北への武力統一を求め、休戦協定には加わっていない)


その後の韓国は民主主義陣営の一員として、アメリカや日本、ドイツやイギリスなどに多くの支援を受け国としての発展を期待された。


しかしイ・スンマンをはじめとする政府要職者は、自己の利益のみに奔走し独裁政権をひいたため国民生活は改善される事が無く、イ・スンマン政権への不満がどんどん高まっていった。


それが4・19革命につながる。

4・19革命によりイ・スンマン大統領はハワイに亡命し、野党のユン・ボスン大統領、チャン・ミョン総理の政権が出来るが、韓国民は自分たちのデモが政権をひっくり返した事に味をしめ、社会の不平不満をデモで主張するということを繰り返し社会は大混乱に陥っていった。

今度はそれが1年後の5・16軍事革命を引き起こす。


社会の混乱と北朝鮮の再南進を危惧した、パク・ジョンヒ中将を中心とする一部の軍部がクーデターを起こす。

全土を掌握した軍部は、パク・ジョンヒを国家再建最高会議の議長に指名して反共を国是とする新政権が発足した。


「君島さん、このパク・ジョンヒ大統領という人は、今の韓国でも評価が真っ二つに分かれる人ですね」小村が言う。
「そうです、経済発展には大きな功績を残しましたが、人権という面では批判が多い人物ですね」

「何年間続いたんでしたか?このパク・ジョンヒ政権は?」
「1979年までですから18年間ですね。ご存知のように最後は1979年の10月26日にKCIAの当時の長官に暗殺されてしまいました」

「あの時は日本でも大きな出来事として報道されましたよね」
「まさかあのころはアメリカの息がかかっている出来事とは思いませんでしたが・・」

「韓国内でも、KCIA長官だったキム・チェギュが個人的な恨みで、大統領警護室長だったチャ・ジチョルを殺した時にパク・ジョンヒ大統領が巻き添えになったという見方をされていました」
「チャ・ジチョルという人は評判がよくなかった人ですよね」
「パク・ジョンヒ大統領の腰ぎんちゃくといわれていましたね、当時は・・・」

「小村さん、あの当時はいろいろな憶測が流れていましたが、結局はアメリカのCIAが絡んだ暗殺劇だったわけです」
「なぜ、そんな情報操作に乗っかっちゃったんでしょう?」

「日本のマスコミもまだまだ成熟していなかったんじゃないですか?」
「今ほど情報がリアルタイムで流れる時代じゃなかったですから・・」

「そういえば小村さん、覚えていませんか?あの当時日本では北朝鮮は国民がみんな平等で税金も無ければ医療費もかからない地上の楽園、韓国は軍事独裁政権で人権も何もないひどい国だと言われていました」

「実際はウソだったわけですよね」
「そうです、日本にいた共産主義者が意図的に流したプロパガンダだったんですが、日本のマスコミもそういう論調の所が多かったので、まだ子供だった私たちは北のほうがいい国なんだと錯覚していました」

「君島さん、それは先生方の日教組という組織も関連している話ですよ、今ではそんな事ないと思いますが、小さい子供たちを教育する先生方のほとんどが共産党や社会党のシンパだったのですから・・」

「そうでしたね・・・私なんか日教組の強い京都でしたから小学校の時分は、先生が授業の中でも共産主義をたたえる発言をしていましたから・・」
「世界中が資本主義と共産主義の戦いだったんですよあのころは・・・それに一番翻弄されたのが朝鮮半島とドイツでしょう」


「実際の所、1970年くらいまでは北朝鮮の方が経済的には優位だったんですよね」
「そうです、小村さん、1960年代の後半に日本で起こった、在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業を覚えていますか?」

「はい、覚えています」
「あれも今から考えると、経済的に切羽詰ってきた北朝鮮が帰国者の財産を目当てに始めた事業じゃないかと思います、その後の北朝鮮帰国者からの情報はそれはそれは悲惨な物でしたからね」

「君島さん、私は大阪の生野区という在日の方々が多い地域で小学校中学校と過ごしましたが、私が小学生の低学年のころ帰国事業をやっていたのですよ、三沢さんも私の同級生だからよくご存知ですが、日本での差別に耐えかねた在日の人達は北朝鮮に行こうと考えた人が多かったようです、私の身近にもいましたよ親と一緒に北朝鮮に渡った友人が」
「そうでしたか・・小村さんは実体験として帰国事業を見てきていらっしゃるんですね」

「今思えば、みんな騙されていたんですがね、結局北朝鮮が崩壊して帰国事業で北朝鮮に渡った人のうち生きていた人が1%に満たないというのですから話になりません。
 北朝鮮で生き残った人の話を聞いても、悲惨な話ばかりでしたから・・・・」




つづく













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Last updated  2009年02月02日 22時01分20秒
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