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戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年03月08日
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カテゴリ:旅日記(九州)
あと、特に目をひいたのが、「今川了俊連歌懐紙」(大宰府天満宮所蔵)。

永徳2年(1383)、九州探題の了俊によって大宰府天満宮で興行された
千句連歌のうちの第5巻の懐紙。


 【征西府の拠点でもあった大宰府を落とした了俊による連歌興行の意義は発句
  「今日いくか我此花の御かき守」に集約されている。此花は天満宮を象徴する梅、
  それを自分はしっかりと守っていくとの決意表明でもあった。
  美麗な連歌懐紙の代表的作品。】
  (「大内文化と北九州」図録より)


なんで大内氏で了俊かって?
大内義弘さんは、了俊の娘を娶ったといわれてるんですね。
了俊に協力して、九州の南朝勢力の追討もしてるしね。

後に了俊は九州探題を解任され、義弘に至っては足利義満に難癖つけられて
幕府軍と戦い、討ち死にしている。
了俊は色々苦労した割には96歳まで長生きしてるけど(笑)。

この懐紙の冒頭には梅の花がプリントされてるんだけど、
連歌会の様子とか想像すると、ときめいちゃいますね~(笑)。




展示品のひとつに、重文の「真如堂縁起絵巻 上巻」(真正極楽寺所蔵)が
あってね、会期中に巻の入れ替えがあるんだけど、この絵巻を
大きなCGの映像で紹介してて、これが面白かった。題して、
 「遣明船の大きさを実感しよう!」。


昔の船の右端に、坊様が一人ぽよ~んと立ってる姿をご想像下さい。
真正極楽寺(通称・真如堂)は慈覚大師の作った阿弥陀如来様を祀ったことに
始まるそうだから、たぶんこの坊様が慈覚大師様なんだわ。

昔の絵ってのは、人物を大きく描いてるそうなので、
この坊様を身長157センチ(昔の平均身長か?)に実寸表示。
それを船のあちこちに移動させて、船の大きさを体感してみましょうって企画。


慈覚大師で遣明船?時代が違うんじゃね?
と思った物知りのアナタ!

そうなんです。
慈覚大師円仁様は、794年-864年。
中国に渡ってはいますが、遣唐使なんです。明じゃありまへん。


真如堂縁起絵巻の描かれたのは大永4年(1524)。
テーマは平安時代でも、室町の船を参考にして描かれた。
だから、室町の諸風俗を知る上での歴史資料として、貴重な絵巻なんだと。

2回くらい見て一生懸命メモをとったんだけど(笑)、それによると
船は高さ17m、長さ35m。
中央に「御座船」を置き、それに使節が乗り込んだ。
丸太を半分にくりぬいてつなげて船底を作り、
側面に板を組み上げて船体を深く広くした、と。


当時の門司は、造船所をメインとした貿易の基地として、
多くの武士・職人・商人たちでにぎわっていた。

明に渡航できるだけの大型船は、国内に12隻。うち4隻が門司船籍。
この門司の船(和泉丸・宮丸・寺丸など)を借り上げて遣明船に仕立てたんだって。

ただ、船は大きければいいってもんじゃなかったらしく、
永享5年(1433)の時には、和泉丸という2,500石の大船は
デカすぎて逆に使えず、寺丸という船にチェンジさせられたとか(笑)。

船だけじゃなく、船頭なども門司の人が採用されたっていうから、
経済効果抜群で、当時の門司にとっても遣明船サマサマだった訳だね。



遣明船を始めるにあたっては、あの俺様坊主・・・いえ、足利義満公が
まあ色々と面白い話を残してたりするけど、それだけの価値はあった。

「大乗院寺社雑事記」による遣明船の収支は、1隻あたり、

 収入  約40億円
 経費  (人件費などの雑費)約1億8000万円
     (輸出品代)約10億円
 税金  約4億円
 利益  約24億2000万円 

・・・24億の利益。
1回に、1隻でね。


遣明船の規模とかは時代によって違うみたいだけど、
応仁の乱以降は3隻と決められたみたい。

そして、最終的に大内氏がこれを独占するようになる。



大内さんちに集まったのは、カネやモノだけじゃない。
朝鮮から大蔵経の輸入を繰り返し、各地の寺社に奉納された。
雪舟さんのように、異国の文化を学びとろうと多くの文化人も集まってきた。

ありし日の、大内さんち周辺の様子を想像してみてください。
荒廃した京に比べ、華やかな文化が花開いた赤間ヶ関や山口市の様子を。

なのに何で、マイナー武将と馬鹿にされねばならんのか・・・
ぷんすか失敗




さてと、展示品の紹介はこのくらいにして、大体2時間ちょっと観てたのかな。
前日の疲労が腰に溜まってて、ずっと立ってられないので、
ちょいちょい座って休憩しながらってのもあったけど、
国立博物館とかみたいに何室もある訳じゃない企画展示室で
これだけ長居してたのは、私だけ。

監視のお姉さんも、

「アイツ、まだいるよ・・・」

とか思っただろーな(笑)。


展示室からショップに移動して、グッズを物色。
ここ「いのちのたび博物館」はその名の通り、進化系の展示がメインらしく、
恐竜グッズがいっぱいあった。

企画展に関連しての土産物はそんなになかったので、図録と
恐竜のクリアファイルなんぞ持ってレジへ・・・(←恐竜けっこう好き)


途中、とんでもない物が目に入ったので、レジのお姉さんに

「アレ、撮ってもいいですか?」

って聞いてみたら、快く承諾してくれた。



     大内塗のボーリング玉!


写真じゃ大きさがわからないと思うけど、
ボーリングの玉なんですって。これ。

 【ボーリングが趣味のご主人、小笠原さんがあそび心で作りました。
  普段は桑原大内塗の工房内に飾ってあります。】(解説より)


大内塗とは、

 【大内塗の歴史はたいへん古いものです・・・。          
  いまからおよそ600年ほど前、大内氏が周防と長門の国を治め、
  山口は日本の文化の中心といえるほどの繁栄を築きました。大内氏周防・長門
  統治の基礎を作った大内弘世は、正平年間(1346~68【室町時代】)
  の頃に、国を強固にしていきました。    

  大内塗の漆器や蒔絵(まきえ)が、明(中国)や朝鮮との重要な交易品と
  なっていました。                   
  大内塗の代表的なものとして、器、盆などがあります。】
  (桑原大内塗工房様のホームページより)


大内さんの歴代当主は大変な京都好きで、ひろよん(弘世)も京から嫁さんをもらった。
はるばる周防まで来たその嫁さんを慰めるために、雅な人形(大内人形)を
作らせたなんて話もある。

モノにもよるけど、伝統工芸ですしね、
ぶっちゃけ高いですよ(笑)。

その大内塗でボーリングの玉・・・笑ったね。
いや、嫌いじゃないけどね、こーゆーセンス。




さて・・・もうお昼。
早く門司に戻りたいけど、知らない所で食べ物屋を探すのは
時間がかかるかもしれないので、博物館の前にあるイオンで食ってくことにした。

ところが・・・
イオンってどこもそうだと思うけど、ま~広い広い!!
腰が痛くてたまらないのに、飲食ブースまで散々に歩かされて、
マジで腹が立った(←腹が減ると機嫌が悪くなるタイプ)。

床面積をこれだけ広く取るんなら、高齢化社会なんだし、
体の弱い人の事も考えて「動く歩道」とか作ってよね!!
とかイライラしながら食事。

子供の頃から腰が弱いので、一旦腰に疲れがたまると
ちょっとやそっとじゃ回復しない。
この後、予定通りこなせるかな・・・


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最終更新日  2013年01月19日 19時32分42秒
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