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戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年09月29日
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カテゴリ:旅日記(近畿)
延暦4ね~ん。
(大変だから)書きたくねえ~!!
歴バナの途中で泣きごと言うのはいつものことです涙ぽろり


●延暦4年(785)

この年、瀬田の近江国分寺が焼失(詳細は不明)。
1月14日、長岡京造営の物資運搬のため摂津・三国川の開削工事を行う。
1月19日、安房に大きな魚500あまりが漂着する。

3月下旬~4月上旬、最澄が東大寺で具足戒受戒。
4月6日、最澄の受戒の終わったことの通達「僧綱牒」が近江国司に送られる。


4月7日、多賀城から遠く離れた名取以南の14郡から人民を募集し、仮に置いた
多賀・階上の2郡に人や兵を集め東西の防御としたが、郡を統括する官人がいないので
正規の郡を作って官人を置いてほしいと陸奥按察使・鎮守将軍の大伴家持らが進言。
4月30日、皇后宮に赤い雀が現われ、10日ほど遊んでいた。

5月、周防で飢饉と疫病。
5月3日、桓武の祖父母に尊号を贈る。また、臣下の礼として君主の諱(いみな)を
避けるべきであるが、最近ではこれを犯す者が多いので諱に触れる名を避けるよう通達。
5月19日、先の赤い雀を調べたところ瑞鳥だとわかったので、大赦。
また、山背国には初めて皇都が置かれたので今年の田租は免除とし、遷都の際に
土地を接収された者に対してはすべて京に戸籍がある者と同様の扱いとする。

5月24日、遠江国からの調・庸は質が悪く使用できなかった。近年では他の国からの
貢進物も粗悪品が多いので、今後同じことがあれば担当の国司を解任、またその国の
郡司も解任し系譜を断絶せよ、という勅を出す。

5月25日、出家した人は仏道を修行するのが本来の勤めであるのに、最近では
多くの僧が仏法に背き、勝手に檀越を定めて民間に出入りしたり、仏の霊験といつわって
愚かな民を欺き誤らせたりしている。
これは僧が教えや戒律を守らないというだけの
問題ではなく、管轄の役人の取り締まりが甘いせいでもある。今後このような
ことがあれば、その者は畿外へ去らせ、官の認可を受けた寺にとどまらせるようにという
勅を出す。

5月26日、畿内5ヶ国で雨乞い。
5月27日、地震。
6月、出羽と丹波で不作による飢饉。
6月18日、藤原是公(南家)らは百官を率いて、赤い雀などの瑞兆に対して
祝いの上奏文を奉る。
6月20日、藤原家依(北家)が死去。
7~8月頃、遠江・下総・常陸・能登などで大風。のち飢饉が起こる。


7月上旬、最澄、叡山へ登り山林修行に入る。
7月17日、淡海三船死去。
7月20日、勅。

「仏の教えはまことに深遠で、天下が安寧であるのは
その教えの霊妙な力によるものだろう。そして、仏の道を
伝えるのは僧侶である。

僧尼で徳があり修行に励んでいる者を表彰して世に知らしめる
ことは、仏道を広めることにもなる。よって、担当の役所で
ひたすら修行に励み法灯を伝えている僧を選んで詳しく
報告させるようにせよ。」

(by 桓武天皇)

その他、長岡京の造営にあたる人夫に賃金を払うこととし、諸国の人民
31万4千人を雇い入れることとした。

7月24日、正税とは水害や旱魃への備えであるのに、国司の中には正税を
横領する者が多い。今後はこれを厳しく禁じ、国司同士でも互いに検察するように。
国司に郡司が同調して見逃した場合は、国司と同罪とする。
7月28日、土佐から送られた時期外れの調が粗悪であったので、国司の目(さかん)
以上を解任する。

8月24日、平城京にいた桓武天皇の第2皇女・朝原内親王が伊勢の斎王として
いよいよ伊勢に出立することになったので、それに立ち会うため天皇が平城京へ行幸。
8月28日、大伴家持死去。

9月、河内で洪水。
9月3日、地震。
9月7日、斎王・朝原内親王が伊勢へ出立。百官が伊賀との国境まで付き添って見送った。
9月8日、天皇が水雄岡(みずのおのおか:現・京都市左京区)で遊猟。

9月23日、夜、工事現場の見回り中に藤原種継が射られる。
9月24日、種継死亡。享年48歳。
天皇が還御。大伴継人・大伴竹良ら数十人を捕らえて取り調べたところ、
種継暗殺を認めたのでそれぞれを法によって裁き、斬首や配流とした。
天皇は種継の死を悼み、正一位・左大臣を贈った。


天皇は犯人の捜索を命じ、大伴竹良・伯耆桴麿・牡鹿木積麿が捕らえられた。
天皇は右大弁・石川名足らに取り調べるよう命じ、桴麿が自白した。
『大伴真麿、大伴夫子、佐伯高成、及び大伴竹良らが謀り、自分と木積麿を遣わして
種継を襲いました』

大伴継人・佐伯高成らも自白。
『大伴家持が大伴佐伯両氏で種継を除こうと言ったので、それを皇太子にお伝えし
事を起こしました』

残る関係者を厳しく尋問したところ、全員が罪を認めた。
主犯の大伴継人、佐伯高成、大伴真麿、大伴竹良、大伴湊麿、多治比浜人を斬首。
種継暗殺実行犯の伯耆桴麿、牡鹿木積麿は種継の棺の前で自白・懺悔をさせてから、
山埼の南の河原で斬首。

また五百枝王、藤原雄依(北家)も連座していた。五百枝王は本来死罪のところを伊予へ流罪。
藤原雄依及び紀白麿、大伴永主(家持の子)らは隠岐へ流罪。林忌寸稲麿は伊豆へ流罪。
他の者も罪の重さに従って流罪に処した。
大伴家持(故人)はまだ埋葬されていなかったが、官位剥奪。

9月28日、天皇は事件のあらましを発表。皇太子・早良親王も事件に関与していたと
公表。
早良親王は内裏から春宮に帰り、夜8時頃乙訓寺へ移され幽閉された。
以後、早良親王は自ら食を断つ。


10月4日、班田収授のため、畿内5ヶ国で水田を検分させる。
10月8日、天智天皇・聖武天皇・光仁天皇の各山陵に使者を遣わし、
早良親王を廃太子としたことを報告。

この頃、石川垣守らを派遣して早良親王を船で淡路へ移送させる。
10月15日頃、護送途中、淀川にかかる高瀬橋のほとりに差し掛かった頃には
早良親王の息が絶えていた。遺骸はそのまま淡路へと移送し、淡路で埋葬。

10月27日、河内の堤防の30ヵ所が決壊。30万7千人あまりに食料を支給し
修築にあたらせる。

11月8日、三国広見が謀反を偽って告げた罪で斬罪となるべきところ、佐渡への配流となる。
11月10日、以前から祈ってきたことの礼として、交野(現・枚方市)で天の神を祀る。
11月25日、桓武天皇の子・安殿(あて)親王を皇太子とし、あわせて大赦を行う。



ふ~っ・・・
通しで書いた方が流れがつかみやすいと思ったので、年末まで書き出しました。
早良親王は有名なので、この年を今か今かと待っていた方も多いんじゃないでしょうか(笑)。
ま、まずは最澄の方からいきますかね。

  出家過程-2


この春、東大寺の戒壇においてめでたく受戒。
これによって正式な官僧となります。
前年の終わりに桓武が長岡京に引っ越しているので、
首都移転で取り残された奈良の元・都において受戒した訳です。

 【当時、東大寺戒壇院で受戒を許される僧は年間10人前後であり、最澄は国家仏教の
  超エリートとして将来の出世が約束されていた。】
  (『あなたの知らない最澄と天台宗』より)

ところが、官僧としての最終ステップをクリアして
前途洋洋たる青年僧・最澄が選んだ道は、山籠りだった。
入山の正確な日付はわかっていないものの、『水鏡』では

 【サテ同4年7月中ノ10日比ニ、伝教大師比叡山ニ昇テ住給キ、是ハ大和国大安寺ヨリ
  御登アリシニ、御年19ニゾ成給シ。】
  (漢数字は戦国ジジイが変換)

ということで7月10日頃に叡山に入ったと伝える。

『若き日の最澄とその時代』で佐伯氏は受戒の前に大安寺で修行を続けたとし、
受戒の後は国分寺には入らずそのまま叡山へ向かったとしているので、
この辺の記事を基にしているのかもしれない。

大安寺からそのまま山籠りに入ったということは、
受戒の前にも大安寺を奈良での拠点としていた可能性は充分にある。
大安寺は師の行表が籍を置く寺でもあるんだし。

瀬田の国分寺の火事の時期は延暦4年ということしかわからないけど、
のち弘仁11年(820)に国昌寺が近江国分寺となる。

国昌寺は最澄の実家・三津首氏が住んでいた古市郷にあった寺で、
最澄の受戒から約20年後の文献に「国昌寺の僧最澄」という記述があることから

 【おそらく、その(山籠りの)さいに僧籍を最澄の本貫の地、滋賀郡古市郷にあった
  国昌寺に移したのであろう。それは同寺が国分寺の代行寺院としての役割を果たして
  いたことによるのであろう。】
  (『若き日の最澄とその時代』より。カッコ内は戦国ジジイが追加)

と佐伯氏は語る。

まあ、世情がわさわさする中で最澄にも思うところはあったんでしょうけど、
それにしたって宝亀10年(779)には国分寺の僧は原則自分の寺に帰るようにと
されているし、この年の5月には官僧が勝手に民間と交わるなとも言われているのに、
これからって時になんでまた急に山ごもりなんて始めたのか・・・

具足戒を受けた僧が超エリートなら、国分寺僧は特別国家公務員とでも言うのかな。
宝亀10年の勅では、本人が希望するなら京での仮住まいも認めるとしているので
多少は自由行動の余地も残されてはいるものの、そもそも欠員補充のために
得度・受戒した新人が寺に入るかわりに山に入るってどうなの・・・

これはやはり師であり上司でもある行表の理解があってこそだろうと思われます。

最澄の生きた時代を細かく見る前は、なぜ突然山に入ったのか?と大変疑問に思いましたが、
道鏡の時代に禁止された山林での読経が、宝亀元年(770)に撤回されている事を
知ってからは、そこはあまり重要な疑問ではなくなりました。
なぜって、最澄が生まれた頃から山籠りが流行ってたってことで、
仏教界のお偉方にも山林修行は意義のあるものって見なされてたってことでしょ。

だから、最澄一人がキヨラカな世界を目指して孤独に山籠りを始めた訳ではなく、
あくまで「山に入った大勢の中の1人」だったんですよ。
もちろん、そのまま埋もれてしまわなかったのが彼の非凡なところだけど、
その後の華々しい活躍も一面ではやはり「その時代だったから」という気もするんだな。



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最終更新日  2014年10月02日 22時55分26秒


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