暗躍(15)
山田浅右衛門が敏次郎を真っすぐに見つめ、おもむろに語りはじめた。「不義密通は天下の御法度、相対死もしかりにございます」 相対死(あいたいし)とは心中のことである。「相対死で男が生き残れば死罪、女が生き残れば、日本橋に晒され非人手下として生きて行かねばなりません。現場を押さえた暁には、二人を日本橋に晒して頂きたくお願いいたします」「了解した。間違いがなければ大奥は静かになろうな」「これは面白くなりましたな、寛永寺は将軍家の菩提寺じゃ。そこの僧と大奥の御年寄りが密会とは恐れおおいことじゃ」 帯刀が一人で興奮している。 寛永寺は寛永二年(一六二五年)に江戸城の鬼門の守りとして天海僧正が開設した天台宗の寺である。増上寺とならぶ徳川将軍家の菩提寺であった。 門主は輪王寺宮(りんのうじみや)と称し、比叡、東叡、日光の三山を統括し、壮大な大伽藍は有名であった。 山田浅右衛門が浅黒い相貌をみせ杯を伏せた。「敏次郎さま、拙者はそろそろお暇つかまつりますが、密会が確かであったらお知らせいたします。そのさい穢多頭(えたがしら)で囲内頭(かこいうちがしら)の弾左衛門に繋ぎをとって下さい。恐れおおいことをお願いいたし、申し訳ございませぬ」 「穢多頭の弾左衛門とは何者じゃ」「穢多非人と呼ばれる賤民(せんみん)の頭にございます。囲内は山谷堀の外側で大川から一町ほど入った場所にございます、一万五千坪の穢多村新町に住まいいたしております」 「分った。その弾左衛門に繋ぎをとればよいのじゃな」 徳川体制は士農工商で定められた一般層と、賤民層で成り立っていた。 家康は江戸に幕府を開くや、彼等に特権を与え世襲として弾左衛門を穢多非人の頭とした。一般層を束ねる政権が幕府であり表の支配者であったが、裏世界を束ねる者が弾左衛門であった。 江戸末期には、その新町に四百世帯が住み着き、商店、銭湯、髪結床、寺小屋などが軒を連ね、二千人余の賤民が暮らしていたと言われる。 ここに弾左衛門は七百四十坪の屋敷を構え、賤民層の人々を裁くお白州から牢屋敷まで作っていた。彼等は囚人の刑の執行や、死骸の取り片づけなどの、血の穢(よご)れの仕事に従事していた。 幕府は血の穢れを恐れ、自らの手を汚すまいとして彼等にそれを託したのだ。 幕府は磔刑(たっけい)や火罪の準備、執行、さらに後始末まで弾左衛門と車善七の手下の非人にさせていたのだ。 (四章)「永池、水野忠邦と北町の遠山左衛門尉との接点はまだ判明せぬか?」「未だに、申し訳ございませぬ」 内与力の永池藤一郎が狡猾そうな眼を細め詫びている。「遅い、大奥からは水野失脚の証拠が掴めたかと矢の催促じゃ」 鷲鼻をもつ鳥居甲斐守が苛立ちを隠さずにいる。「ひとつ不審な点がございます」 「何じゃ」「先日、水野邸に見張りをつけて置きましたところ、得体の知れない男が夜間に潜入いたすところを発見いたしました」「見張りの者の名は?」 「同心の大橋新兵衛と井上一馬にございます」「手緩い者共じゃ」 「二人は南町奉行所では屈指の腕前にございますぞ」「馬鹿者、大橋なんぞは口舌の徒じゃ、大事を任せるには不適任」 鳥居甲斐守が額に太い血管を浮かべて怒声を発した。「暫くいたしましたら男が出てまいったそうです。二人が跡をつけましたところ、小伝馬町あたりで見失ったそうでございます」 「言わでもないことじゃ」「まずはお聞きを、二人が牢屋敷の練塀に近づき様子を探ろうとしたところ、笠をかむった武士に誰何(すいか)されたと申します」「・・・・」鳥居甲斐守が顎をしゃくり先を促した。「八丁掘と名乗ると、相手の武士が牢屋敷を探る八丁掘がおるものかと逆に威嚇され、かっとなって仕かけたところ、一刀で峰討ちを浴びて昏倒した由。あの新築の揚り座敷には謎がありませんかな」「愚か者め、八丁掘同心が二人でかかり、一人の男に倒されるとは前代未聞の醜態ぞ」 再び怒声を浴びせられたが、永池は臆することもなく訊ねた。「ご奉行、それでも不審とは思われませぬか?」暗躍(1)へ