暗躍(66)
(十四章) 呉服橋門内の北町奉行所は騒然となっていた。突如、深夜にお奉行が巨躯の武士を伴って姿を現したのだ。「お奉行、いかがなされました」 年番与力の山部大三郎が驚いて出迎えた。「山部、この方は従目付の新藤三郎兵衛殿じゃ」「年番方の山部大三郎にございます」 「新藤三郎兵衛と申す」 門番や詰め所の同心が何事かと集まってきた。「皆共、非常呼集じゃ、八丁堀に駆けつけ非番の者をすべて召集するのじゃ。かまえて南町の者に悟られてはならぬ」 訳のわからぬままに北町奉行所の者が八丁堀に駆けつけて行った。 遠山左衛門尉は床几に腰を据えている、傍らには新藤三郎兵衛が巨眼を光らせ控えていた。丑(うし)の刻(深夜二時)全員が集まった。 遠山左衛門尉が事のあらましを語って聞かせた、全員の顔に緊張感が奔った。老中首座の暗殺が行われることを初めて知ったのだ。「良いか皆共、七つ(午前四時)前には深川におる、島崎一郎兵と合流いたす。途中で牢屋同心五名が加わる、一人も逃してはならぬ」 遠山左衛門尉が自らてきぱきと手配を終え、人数を半分に分けた。「山部、そちはこの人数を率いて新藤殿の指揮下に入るのじゃ」「心得ました、新藤殿よしなにお願いいたします」 新藤三郎兵衛は山部に断り、同僚を伴うために奉行所を辞していった。「これより身支度をととのえよ、お勝手係は握り飯を頼むぞ、腹が減っては戦に勝てぬ」 遠山はさらに二十人分の握り飯と水筒の用意を命じ、奥に引き上げた。身支度をととのえるためである。 新藤三郎兵衛は屋敷にもどり身支度をととのえ、同僚の石川三五郎宅を訪れた。 「新藤さん、この深夜にその形はどうしました」 石川三五郎が不審がることも無理からぬことである。「三五郎、貴種からのお下知じゃ」 新藤三郎兵衛がことの成行きを語った。「本当ですか?」 石川三五郎が顔を引き締め性急に尋ねた。「この夜更けに馬鹿話に訪れるものか、平山一馬以下三名に連絡いたせ。集合場所は北町奉行所じゃ」 「心得申した」 従目付の六名が奉行所に駆けつけると遠山が待ち受けていた。すでに胴丸をつけ陣羽織に塗笠を被り、袴姿の物々しい形をしている。 「おう、お出で下されたか、それがしが遠山左衛門尉にござる。この度はご足労をお掛けしますが、宜しくお願い申す」 従目付の面々が名乗り、挨拶を交わした。「新藤殿、山部以下二十六名が貴方の指揮下に入ります。何卒、よしなに」「行き先は馬喰町にござるな、我等、従目付が先頭にたちます」「剣の手練者に先鋒(せんぽう)を務めて頂けますか、心強いことですな」 遠山左衛門尉の顔に笑みが浮かんだ。「刻限までには間があります、握り飯なぞ用意いたした」「それは有り難い、遠慮のう頂戴いたします。三五郎、頂いて参れ」 奉行所から続々と同心や捕吏が闇に消えて行く。 塗笠を被った遠山左衛門尉が、ゆったりと床几から立ち上がった。 西風が吹きぬけ、心地よい風が一同を包み込んだ。「出動の刻限です。七つ半(午前五時)には十万坪地に突入いたす、貴方の方は直ぐに道場を包囲して下され」 「承知にござる」 新藤三郎兵衛以下三十二名が遠山を見送った。「山部殿、我等は馬喰町の阿坂道場に向かいます。手練者が多いと聞いております、一対一の捕り物は止めて頂きます。手にあまれば容赦なく斬り捨てます、左様、心得て下され」 新藤三郎兵衛の巨眼が鋭くなっていた。「すべての指揮権はご貴殿にあります。存分にご命じ下さい」 従目付全員は鎖帷子を着込み鉢巻をしめていた。羽織は闘いにとり邪魔と考え脱ぎ捨てた、刻限となり新藤三郎兵衛が先頭に立って奉行所の門を潜りぬけた。石川三五郎と下ッ引きが、物見として町屋の軒下を疾走していた。「お主の名前を聞いておこうか」「へい、あっしは夜鴉の助八と申しやす。旦那は?」「拙者は石川三五郎じゃ」暗躍(1)へ