うわばみ新弥行状譚(38)
「無礼者」怒りの声をあげ袈裟斬りを浴びせた、凶行は無意識に行われたのだ。「きやぁー」血飛沫と悲鳴をあげお由紀が倒れ伏した。だが恐怖に襲われた一之進はなおも夢中で刃を振るっている。奥から六蔵が慌てて飛びだしてきた。「お止めなされ、死んでおります」一之進は呆然と佇んでいる、全身に血潮を浴び、大きく息を吐きだし目が虚ろとなっている。「死んだのか、わしが手にかけた」「馬鹿な真似をなされましたな」 六蔵が強い口調でなじった。「死骸はどういたす?」「それは、あっし等が始末いたしますが、石崎孫兵衛はいかがいたします」「無礼者」一之進はまだ正気を取り戻せず、同じ言葉を力なく呟いている。 六蔵が配下を呼び寄せ何事か命じた、男達がお由紀の死骸を運び去った。 何気ない一言で殺害したのだ、一之進の頭は空っぽとなっていた。 (八章) 勘定方の詰め所に磯辺伝三郎が姿を見せたのは、下城の刻限が迫った頃である。相変わらず精悍な風貌をみせ足早に訪れてきた。「斉藤、お勤めの具合はどうじゃ」あたりを憚らぬ(はばからぬ)大声で訊ねた。「今日は、はかどりました」新弥が生真面目に答えた。「そうか、剣文館で待っておる。久しぶりに稽古がしたい」言い残し颯爽と戻っていった。「忙しい方じゃ」朋輩が囁きあっている。「磯辺さまは剣文館の先輩じゃの、勝てるか?」稲垣九兵衛が訊ねた。「敗ける訳がありませぬ」新弥が鼻白むような愛想のない口調で返事をし、最後の文字を丁寧に帳簿に書き止めた。「今の言葉が磯辺さまに聞こえたら、今晩の稽古は荒れるの」 稲垣九兵衛が厳つい顔をゆるめ、いそいそと立ち去った。 新弥は朋輩と揃って下城した。このような光景は珍しく他の藩士が物珍しく見つめている、どの顔にも好意があふれていた。 途中で朋輩衆と別れ、ゆったりと巨体をゆすって急坂を登り剣文館に辿りついた。玄関に入ると館主の娘、梅が待ち受けていた。頬を桜色に染め瞳が燃えている、若い娘が思慕の思いを隠そうともしない。「今宵はお越しとお聞きいたし、お待ちいたしておりました。磯辺さまは道場で待ちかねておられます」「早いお着きですな」 新弥が着替えのために道場の横の部屋に身を入れると、梅までが一緒に入ってきたのには驚いた。「梅さん、拙者は稽古着に着替えます」「どうぞー」 梅がしらっと答えた、瞬間戸惑ったが構わず着替えに取り掛かった。 梅が新弥の巨体を目の当たりにして顔を染めているが動こうともしない。「梅さん、嫁入り前の娘が男の着替えを見るなどはしたない」「私は斉藤さまが好きです、だから見ていたいのです」 大胆な言葉を発し、興味深く新弥の着替えを見つめている。(勝手になされ)おもむろに下帯ひとつの裸体となり、筋骨隆々とした躯を晒し、梅を盗み見た。流石に乙女である、目を背けている。ゆっくりと着替えを済ませた。それを待ちかねたように、「稽古が終りましたら、奥にお出で下さいとの父の伝言にございます。はしたない態度をお許し下さい」 急に恥じらいを浮かべ、部屋から小走りに駆け去った。「とぅー」磯辺伝三郎独特の鋭い掛け声が道場から響きわたってきた。 新弥が道場に姿を入れると、稽古中の藩士が一斉に壁ぎわに居並んだ。「斉藤、待ちかねた、さっそく遣ろう」磯辺伝三郎が竹刀を構えた。「気ぜわしいことですな」新弥が自分の竹刀を手にした、と同時に凄まじい一撃が襲った。新弥は軽く竹刀をさばいて躱した。 道場に声にならない溜息が洩れた。「遣るのう」磯辺伝三郎が笑みを浮かべ正眼に構えをとった。「今宵は遠慮のう打ち込みます」新弥が左下段に構えた。うわばみ新弥行状譚(1)へ