暗躍(最終回)
源三が新藤三郎兵衛と石川三五郎のもとに、千石船の停泊を知らせに走った。荷船の船頭も舫い綱をゆるめ待機している。 品川沖から現れた千石船の帆がするすると降ろされ、船はゆっくりとお浜御殿の一丁先に停泊し碇が投げ込まれた。「これで江戸の町は見納めじゃ、別れを惜しめ」 お梅には敏次郎の声が湿って聞こえた。上様とのお別れが辛いのだ、そう感じた。二挺櫓の屋形船に五人が乗り込み、穏やかな江戸湾を漕ぎ進んでゆく。 喫水先を深めた荷船があとを追っている。 船には家慶からの数々の贈り物が満載されていた、刀剣、骨董品、什器(じゅうき)などなどである。これからの永い航海に備えた交易に必要な品々であった。「見よ、埋立地を」 敏次郎が六万坪地を指さした。一面に芒が風になびいている、まるで白い波濤のようなうねりを見せていた。「まあ、綺麗なこと」 お梅が感嘆の声をあげ見つめている。「松平敏次郎さまにございますか?」 千石船より塩辛声が投げかけられた。「そうじゃ」 敏次郎が船上を仰ぎみて答えた。「船主の五兵衛にございます、ご老中さまよりお聞きいたしております。ご安心してご乗船して下されませ」 いかにも船乗りらしいがっしりとした体躯の中年の男である。 舷側に縄梯子がたらされ、新藤三郎兵衛が巨体を躍らせ真っ先に昇った。 次に源三が続き、敏次郎がお梅をかばいながら船上に降り立った。最後に石川三五郎が最後尾で昇ってきた。「流石は千石船、大きゆうございますな」 石川三五郎が驚いている。「あかつき丸は、この倍の巨船じゃ」 敏次郎が満足そうに答えた。 反対側の舷側では荷船の荷物が手際よく積み込まれている。空になった荷船が回頭し岸辺に向かってゆく。「良き眺めにございますな」 船主の五兵衛が満月を仰ぎ見ている。 五名が惜別の思いで暮れなずむ江戸の町を見つめた。 千代田のお城が影絵のように黒々と横たわっている。「お梅、あそこ辺りが牢屋敷じゃ」 敏次郎が指をさした。 お梅が船端に身を寄せ、食い入るように眺めている。 今頃は、父上も天守よりご覧になっておられるか。そう思いつつ千代田のお城に手を振った、江戸の町の明かりがキラキラと輝いている。「帆をあげよ」 五兵衛の塩辛声に応え、三十五反の一枚帆が鷲の羽根のように広がった。順風をうけ帆が大きく膨らみ、船足が早まった。 見る見るお浜御殿が遠退き、佃島や石川御用地、永代橋が視界に霞み、満月に照らされた江戸湾の海が黄金色に輝くなか、風を満帆にうけた千石船の舳先が、白い波を切りさき品川沖に向かって消え去った。「とうとう行かれか」 寂びた声が佃島の船着場に響いた。「お梅は大丈夫でしょうか」 「若さまに差し上げた娘じゃ、何も心配はいらぬ」 そこには四個の影が品川沖を眺めていた。遠山左衛門尉、山田浅右衛門に石出帯刀夫妻であった。 こうして敏次郎一行は出島に向かい、二千石の巨船で異国に向かって出航した。それは天保十三年の晩秋の時節であった。 翌年、水野忠邦は改革の目玉である江戸、大阪の周囲十里四方を幕府の直轄地とすべき上知令(あげちれい)を打ち出した。が、御三家や大名諸侯、幕僚の反対をうけ、予測どおり政権の座から失脚した。 これと時を同じくして遠山左衛門尉も北町奉行所の職を辞した。 一方、水野忠邦や遠山左衛門尉の政敵であった、鳥居甲斐守は二年にわたり、南町奉行の要職を勤めたが、天保十五年の秋、突然、病を理由に解任され、翌年には一切の公職を解かれ、地方の旗本のもとにあずけられた。 これは彼の強硬な攘夷論が嫌われたものか、家慶の政治的判断によるものか、永遠に謎として残った。 こうして攘夷論から開国論へと時代は大きく変革し、十二年後の安政元年に日米和親条約が締結され、下田、箱根の二港が開かれることになる。 とまれ、あかつき丸は何処の異国の海を航海しているのか。二千石の大船で逆巻く(さかまく)波濤を乗りこえ、敏次郎一行は何千里も離れた遥か彼方にある、母の母国に向かったのか、その消息は途絶えたままであった。 了。暗躍(1)へ 今日でわたしの拙い小説が完結いたしました。多数の方々がご愛読下され、心から感謝いたします。また、数々のコメントを頂戴いたし、色んな意味で参考となりました。有難うございました。