うわばみ新弥行状譚(10)
人間とは勝手のよい者である、先刻までの憂鬱な感情を忘れ、新弥の頭のなかは、飯岡家にお見舞いに伺うことで一杯となっていた。詰め所にもどると稲垣九兵衛をはじめ、朋輩衆が心配そうに待ち受けていた。「なんぞ言われたか?」真っ先に稲垣九兵衛が訊ねた。新弥は御用部屋での一件を話した。「次から次へと難癖をつけるの」「拙者の落ち度に御座います」「意地を張らず一度、次席家老の屋敷を訪ねたらどうじゃ」 稲垣九兵衛が厳つい顔を曇らせ忠告した。「お心は有り難く頂戴いたしますが、拙者にも意地がございます。今になって軍門に下るような訳には参りません」 彼の髭跡の濃い顔に決意が漲って(みなぎって)いる。「ふうー」と、大きく息を吐いた稲垣九兵衛が、「いらざる詮索をしたようじゃな」と、新弥の顔を見つめた。 その場の朋輩衆も新弥の覚悟のほどを知った。 この場の朋輩達の何人かは石垣家を訪れている、決して心から恭順の意思をもって訪れたとは思っていない。彼等を責める気持ちもなかった。長いものには巻かれる、これが世の習いとは承知しているが、ここまで石垣一派と拗れると武士として節を曲げる訳にはいかない。これが新弥の心意気であった。 このような気持ちとなったのは、左京と会ったことが原因と新弥は悟っていた。たとい飯岡一派と見做されようと、人々がなにを言おうと構わない。己の信ずる道を歩もう、それで良いのではないかと感じていた。だが、お勤めのことを思うと胸が痛んだ、朋輩衆に迷惑をかけることになる。 己は勘定方のお勤めは無理と分っているが、朋輩衆に迷惑をかけてはならぬと心に誓った。まだ打開の道はあると信じていた。帳簿を屋敷に持ち帰れるものなら何も問題がないが、公儀に対する秘密はどこの藩にもある、これは公然の秘密として藩は極秘としていた。そんな帳簿を持ち出せるものではない、そんなことをすれば切腹ものである。新弥は無い知恵をしぼっていた。格子戸から吹き込む風が強まってきた、ねっとりと肌にまとわりつく感じが忌々しい。詰め所が暗くなり突然に雷鳴が迸り、城内に青白い閃光が駆け抜けた。凄まじい土砂降りが襲ってきたのだ。「暗くて仕事にならぬ、蝋燭を点せ」 稲垣九兵衛の命で蝋燭が点された。「これじゃ」新弥の眼光が鋭く輝いた、打開の細い道を見つけ出したのだ、時ならぬ雷鳴が仏の慈悲のように思われた。うわばみ新弥行状譚(1)へ