ニカラグア自由戦士を援助--米議会を動かす
ニカラグア自由戦士を援助--米議会を動かす ボルシュグラーブ編集局長は私からの電話を受けたその日に、その場でこの社説を書いてしまったと言った。 この文章がよほど名文だったのか、アメリカの女流学者で国連大使も務めたジーン・カークパトリック女史が新聞社に電話をかけてきて、一面の社説を読んで背筋が寒くなり、鳥肌が立つほどに感激したと言って、この運動への参加を志願してきた。ハリウッドの有名俳優であり、映画「ベン・ハー」「十戒」で知られるチャールトン・ヘストン氏は、社説に興奮して自分も立ち上がると言ってきた。ウィリアム・サイモン元財務長官はこの「ニカラグア自由基金」の議長就任を引き受けてくれた。 こうして、実際に事は起こった。本社に称賛の電話が殺到し、翌日から寄付金の封筒が洪水のように押し寄せてきた。 ホワイトハウスはうれしくて仕方がなかった。レーガン大統領はすぐにわが編集局長に電話をかけて、感謝の意を表した。 この報告を聞かれた文鮮明先生は大変に喜ばれた。そして、即座に次の段階の大胆な仕事を命令された。それは五月六日付の社説を全面広告にして、全米五十州の主要新聞にすべて載せるように、というものであった。 アメリカ全国は蜂の巣をつついたように大騒ぎになった。議会を非難する世論が沸き起こり、同時に、ニカラグアのコントラを援助すべきだという世論がアメリカの真の国論になった。 この頃になると、国民の票で議員になった政治家たちの驚きようは尋常ではなくなった。故郷では保守愛国人士を装って行動しながら、議会に出ればリベラルな風潮に従うことが時代の趨勢だと言わんばかりに、表と裏の一致しない議員が多かった時代である。彼らは選挙区に自分の本性が暴露されるかもしれないと慌て始めた。 今や流れは変わった。そして、米議会の歴史にないことが起こったのである。 米下院は自分たちが否決したニカラグアのコントラ援助法案(人道的援助)を、ごみ箱から引っ張り出して再上程し、六月十二日、二四八対一八四の大差で可決したのである。米議会史上初めての異例の出来事であった。援助額も当初政府が要請した千四百万ドルの約二倍、二千七百万ドルに増額されていた。 こうして、文鮮明先生のダンベリー刑務所での一つの決心がとてつもない結果をもたらした。世論の支持を背景に力を得たレーガン大統領は、一つ二つと大胆なコントラ援助計画を拡大していった(一九八六年には軍事援助七千万ドルを含む一億ドルの援助を実施した)。アフリカのジャングルであろうと、アジア南方の密林の中であろうと、あるいは砂漠でもシベリアの平原でも、世界のどの場所であっても、自由のために戦う戦士たちをアメリカの「建国の祖父」のように待遇する真正なる政策、すなわち「レーガン・ドクトリン」は次第に奏功し始めた。 コントラは隣国ホンジュラス領内に拠点を置いて粘り強く反政府闘争を続け、それによってサンディニスタ共産政権は徐々に窮地に追い込まれていった。内戦状態を収拾するために停戦交渉が開始され、一九九〇年二月二十五日、待望の自由選挙が実施された。その結果、ニカラグア国民は民主的手続きを踏んで共産政権を打倒し、チャモロ自由政権を樹立したのである。これは自由選挙によって共産政権を倒した最初の例となった。 大統領に当選したチャモロ女史は、陰の功労者が誰であるかをよく知っていた。それゆえ、国連総会出席のためにニューヨークへ来て、一番最初に訪問したところが文鮮明先生の住むイースト・ガーデンであった。文先生はチャモロ大統領に自信と抱負を授けられた。そのチャモロ政権は、冷戦終息後の最近まで存続した。 それでは、ニカラグアを解放した人物は果たして誰であったのか? アメリカの刑務所の監房におられた文鮮明先生ではなかったのか? そして、その主役を演じたのはワシントン・タイムズではなかったのか? 一九九六年十月四日、韓鶴子女史はニカラグアを訪問し、チャモロ大統領の迎接を受け、国家的歓待を受けられた。この国の為政者たちを前にして、歴史的な演説をされたのである。