ソ連帝国滅亡の予言
ソ連帝国滅亡の予言 一九八五年八月、文鮮明先生が創設された「世界平和教授アカデミー(PWPA)」の第二回国際会議がスイスのジュネーブで開催された<15>。会議の目的は「ソ連共産帝国の崩壊」を予言・宣布することであった。それも五年以内に崩壊するというものであった。 当時、ソ連経済は疲弊して衰退の道を歩み始めていたが、共産圏に君臨するソ連帝国の勢威は依然として盛んであった。自由世界は防波堤を築き、巻き返しを図るのに必死であった。その時点で、誰がソ連帝国の滅亡を予言できたであろうか。また予言したとしても、一体誰がその予言を信じたであろうか。 この国際会議の議長に、国際政治学で著名なシカゴ大学教授モートン・カプラン博士(一九二一~現在、同大名誉教授。ブルッキングス研究所、プリンストン大学国際問題研究所、ハドソン研究所の研究員も務めた。国際政治学の権威として二十冊以上の著書がある)が就任した。博士は会議のテーマ設定に大きく躊躇した。政治学者としての良心から、このような突飛な宣言はできないというのだ。 カプラン博士はダンベリー刑務所を訪ね、文先生に懇切に頼んだ。学者としての立場から、断定的なことは言えないので、「ソ連帝国が滅亡する可能性がある」としてくださいと言った。「may be」ではどうかという代案である。 しかし、文先生は断固として拒否された。「あなたが私をその程度しか信じられないなら、いっそのことその議長職を差し出しなさい。私は神様の意思を伝えようとしているのです」 それまで幾度となく文鮮明師の偉大なみ業を見聞して知っている博士は、半信半疑ながらも、その国際会議で、共産主義宗主国ソ連の滅亡が五年以内に迫っていることを宣布した。その時のカプラン博士は自信がなく、とても怖じ気づいていたという。 博士自身の言葉を聞いてみよう。「一九八五年、ジュネーブで文鮮明師が提唱する世界平和教授アカデミー(PWPA)の『ソ連帝国の崩壊』をテーマにする国際会議が開かれ、私が共同議長を務めました。 当時、ソ連はまだその勢力を世界に拡大している、揺るぎない体制であると見なされており、同会議のテーマ自体、多くの学者にとって考えられないものでした。 ところが、その後、数年を経ずしてソ連の崩壊が始まったのです。 実は、同会議に先立つ八三年の韓国でのPWPA会議の時に、文師は世界からの学者を前にひとつの予言的といってもいい講演をしていました。その内容には私も正直なところ、文師はちょっと大胆すぎるとさえ感じました。それは『ソ連体制は三年以内に揺るぎ始める』というものでした。 今になって、文師の方が私よりも先見性があったことがわかります。私は五年、いや十年はかかるな、と思っていたのです」(「世界思想」誌一九九三年八月号) さらに、モスクワで開かれた「第十一回世界言論人会議」(一九九〇年四月)の折に、ソ連PWPA創立総会でスピーチしたカプラン博士は、「一九八五年にレバレンド・ムーンから言われた時には不可能だと思った。もしあの時、『may be』と言っていたら、今ごろ私は笑い物になっていただろう」 と述懐したのである。 ソ連崩壊の前奏曲は一九八九年後半に噴き出した東欧諸国の民主化・自由化運動に始まり、十一月九日の「ベルリンの壁」崩壊で共産圏解放の流れが一気に加速した。この動きはソ連邦の各共和国に波及して、ゴルバチョフ政権を激しく揺さぶった。ここまで来れば、連邦体制の崩壊と共産主義の放棄はもはや時間の問題であった。(15)ジュネーブ会議 一九八五年八月十三日から十七日までインターコンチネンタル・ホテルで開かれ、約八十カ国、約二百七十名のソ連問題研究者らが一堂に会した。スピーカーとして、亡命ロシア人で『ノーメンクラツーラ-ソヴィエトの赤い貴族』(中央公論社)の著者で知られるミハイル・ボスレンスキー教授、ソルジェニーツィン研究で有名なウラジスラフ・クラスノフ教授ら多数が登壇した。カプラン議長は後に、米国の学者の一部が「ソ連崩壊」のアイデアに反発して、会議をボイコットしたことを明らかにした(横山前掲書)。