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カテゴリ:1981年頃のディスコのお話
1981年12月。 その日は店長の二郎さんから全員午後4時出勤の命令が出され、アルバイトもDJも主任も厨房のチーフも全員が赤坂シンデレラに集合しました。 いつになく険しい表情の二郎さんは全員を並ばせるとしっかりとした口調で話し始めました。 「昨日本社から通達があって、ここは来年の年明けと共に閉店することになった」 従業員の反応は思ったより醒めていて、皆それとなく薄々は感じていたことが発表されたまでのことでした。 「今後のことだが、一応全員新宿シンデレラの方に移ることになっているが、本人の希望に任せる。もちろん待遇はすべて現状のままで異動することになる」 二郎さんは委員長の方を見てやさしく言ってくれました。 「DJも同じ条件でそのまま引き取ると言ってくれてる」 委員長の腹は決まっていました。今更新宿に戻るつもりはありません。 「店長、閉店した後はどうなるんですか」 「ゲームセンターにするらしい。もし希望者があれば三人ほど雇いたいと言ってるから、もし残るのであれば申し出てくれ。もちろん待遇はそのままで良いらしい」 それを聞いた委員長は何故かすっきりと割り切れました。 これ以上ディスコと関わっていったところで先行き同じことの繰り返しだし、当面ここに残って様子をみるのも悪くないかなと思ったのです。 それにゲームセンターの係員なんて結構ファンキーに思えました。(根が新しモノ好きですからね) ということで、○間主任と委員長の二人が会社に残ってゲームセンターの従業員になることが決まりました。 ユウジは悩んでいましたが、委員長も今更何をしてやれるわけでもなく、自分の人生だから自分で決めろと突き放しました。 二郎さんは会社を辞めて四ツ谷にカラオケ屋を開業するようでした。 結局新宿には誰一人移ることなく、みごと玉砕です。 遂にここで委員長の時代はいよいよ終焉を迎えることになりました。 本来なら六本木マジックの騒動が最後の局面になるはずだったのですが、なんとなく流されるままに赤坂に来てしまい、結局はずるずると結論を先送りしていただけのことでしたが、閉店という終わり方こそが一番ケジメをつけやすいかたちだったのかもしれません。 要は自分でケジメがつけられない道楽者は、このように時代の方からケジメをつけられることとなってしまったわけです。 いつかはこんな生活にピリオドを打つ日が来るのはわかっていましたが、やはりそれを直視するのは怖かったし、できるだけ考えないように回避しながら成り行きに任せていただけですが、実際に直面してみると自分でも意外なほどあっさりとしたものでした。 DJを辞めたあとの就職先を探すのも面倒だし、今の条件で面倒見てくれるならしばらくはやってみようか、といった軽い決断でした。(結局成り行きやんけ) さて、一応のケジメが付いたら多少の不安は残るものの意外と気分も軽くなり、これから先のことは追々考えるとして、当面はバンドをやるための仕事と割り切って、単なるサラリーマンになりきって生活していこうと決めたのでした。 しかし年の瀬を控えて、皆新しい職場を探すのは中々大変です。 退職者は1月一杯の給料は保証するとのことではありましたが、正月早々職探しをするくらいならいっそのこと繁忙期の12月に転職をした方が楽だということで殆どの従業員が仕事探しに六本木に流れ出ました。 弟分のユウジは新宿時代の昔の仲間のツテを頼りに六本木ギゼへの転職が決まりました。 このころのユウジも委員長同様、バンドへの執着がありましたから、とりあえず食扶ちを確保したというような感じでした。 ゴロウ君は数人のウェイターとともにQUE(キュー)へ移って行きました。 ヤスオは宙ぶらりんで引き取り手も無く、本人もできればまたDJとして復活したいというようなことからナオと入れ替わりで立川のアストロハウスへ飛びました。 かくして赤坂シンデレラは12月の忘年会を持ってその歴史に幕を閉じたのです。 1981年の大晦日、委員長の人生の中で最も暗く寂しい年明けでした。 赤坂でシゲルと待ち合わせをして、二人とぼとぼと明治神宮へ初詣に出かけましたが、毎年恒例のように皆でドンちゃん騒ぎを繰り返してきた正月も、落ち目の人生、道楽者の末路といった感じでミジメなものでした。 1982年の年明け早々赤坂シンデレラの解体工事が始まり、持ち出せるものはすべて新宿シンデレラに運びました。 跡地のゲームセンターはセガとの提携で、アミューズメント機器の管理はセガ、センターの経営は大蔵物産(シンデレラを所有していた正式会社名です)ということで、アルバイトを1名入れて○間主任が早番、委員長が遅番といったシフトで営業が開始されました。 六本木へ出張っていったユウジはその盛り上がり方に多少面食らったようで、スクエアビルを中心にディスコはかなりの賑わいを見せているようでした。 「ロニーさん、仕事ならいくらでもありますからまたDJに戻ったらどうですか」 そういうユウジの姿を見て、心の底から自分の時代は終わったことを実感した委員長でした。まさに赤坂シンデレラは、委員長のディスコ時代の最後のステージとして用意されていたような気がしました。 周りのスタッフや仲間にも大変恵まれた環境の中で、自分のディスコ人生最後のステージを飾れたことを大変幸せに思いました。 本当にこれでケジメがついたという感じです。 委員長自身はこれで今までの精算が終了したつもりでしたが、どっこい世の中はそんなに甘いものではありません。 実はこれからが本当の精算、どーらくのツケが始まっていくわけで、まさか更に辛く厳しい日々が待っているとは夢にも思わぬお調子者の委員長でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年12月04日 06時42分46秒
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