|
カテゴリ:カテゴリ未分類
またまたしつこく地図を作っちゃいましたッ! 今度は、我が心のファンキーディスコQ&B周辺です。 このQ&Bってお店は変な造りだったんです。正面玄関は階段になっていて、そこを昇っていくとガラスのドアがあって、開けるとすぐにレジ。ここでお金を払って左手の通路を進むと、更にちょい円形のトンネルみたいな階段があって、そこを抜けるとホールに出ます。右手側がボックスシートで左手側が丸テーブル、その前がダンスフロアで、その奥にドリンクカウンターがありました。やたらと天井の低い、暗い感じの店でしたね。 でもってダンスフロアの反対側の壁際に小さなDJブースがあって、その横が非常階段、何故かトイレはその階段を上がったところにありました。 これって、トータル何階?だったのかなぁ。それにそのトイレの前は通路があって、控え室みたいな部屋が二つありました。奥の一部屋はQ&Bの階下にあったキャバレーのバンド控え室、もうひとつはQ&Bのボトル倉庫。なんか妙なビルだったですね。ほんとに。 さて、そのQ&Bの建物の正面に、わずか5坪ほどのおにぎり屋さんがありました。 ここはカウンターの奥で、寿司屋のようにおっちゃんがその場で握ってくれるという、当時にしては新しい試みの店でした。(笑) 中味も、寿司ネタよろしく札が掛かっていて、しゃけ、たらこ、おかか、うにくらげ、昆布等オーダーメイドで握ってくれ、カウンターで味噌汁とかも売っていたので立ち食いおにぎりは値段も手頃ということもあり、近所のお水系関係者で随分と賑わっていました。 Q&Bの隣のビルはご存知ブラックシープとアップルハウスがあって、歌舞伎町の裏通りにディスコが3軒並んで、ちょっと良い雰囲気出してましたね、当時は。ちょっと黒っぽいみたいな。(笑)確か、そのビルのカドは美人喫茶で、コーヒー1杯千円もする変な店でした。入ったことはないのでわかりませんが、なんでも現役のモデルとかがウェイトレスをしていて、オシボリやタバコのサービスがあったらしいです。風俗店ではないので、ただそれだけの店だったようです。(未だにこの店のコンセプトがわかりません) アップルハウスの対面は、あの有名なグランドキャバレー・ムーランルージュがありました。浅田次郎さんの昔の彼女がここに勤めていたらしいですが、私の時代はどちらかというと高級キャバレーの方に属してました。ハワイとかクインビーとか浦島とか、ちょっと過激なサービスの店が増えてた頃だったので、ミカド系の昔風キャバレーはちょっと格上だったですね。で、このビルが戦後のヤクザ新宿戦争でも有名な地球会館。ちなみに戦友のジョイ吉野が、ここの社長の娘と辛い恋をしました。涙涙のお話です。(また今度ね) それと、このムーランルージュの隣に、確か「まつり」とかいうライブハウスがあったと思うんですね。もちろんJAZZ専門の店だったんだけど、ピットインとかに比べてもうちょっと庶民的みたいな感じで、志村けんさんとかがよく出入りしてました。 そんでもって、昨日YU-JIさんが困惑していたお店、それはたぶんホワイト・ホースでしょう。アップルハウスから西武線の方に出て右に曲がるとスタッセ・ビルというのがありました。現在はグリーンプラザとかいうサウナ&プチホテルになっているようです。当時の歌舞伎町は、このスタッセ・ビルが境界線みたくなっていて、ここから先、大久保方面はホテル街ってことで、ちょっとエッチモード入ってました。(笑) スタッセ・ビルの1階はガラス張りのスナック喫茶スタッセで、地下に下りるとパブ・ツモローがありました。あと、時代がちょっと定かじゃないんですが、シェラザードっていう店と、もう一軒中型のディスコ、ホワイト・ホースがあったと思います。この辺はちょっと時代が錯綜しています。ひょっとしたらシェラザードの跡地がホワイトホースだったかもしれません。(どうも時代の境目がないんですよね) このパブ・ツモローは、後のトゥモローUSAを切り盛りした小林(江川)社長が支配人を務めていたお店です。その当時、ハリマオというROCKバンドがここからデビューしました。 そしてDJは後のエスメラルダを創設した、新宿のジュリーこと鈴木昇治君とライバル、赤シャツのみつぐ君が務めておりました。お店は明るい感じのパブ・ディスコで、ダンスフロアも比較的広かったですね。客層も若い子が多かった。 このスタッセビルの対面に、「びっくりや」という定食屋がありまして、ダイタン商事と社員食堂の契約を結んでいたので、ここにはチェーンの黒服が始終出入りしていました。 単品で色々頼めて、メシの量も多かったので人気がありました。 後に、赤坂のみすじ通りに支店を出すほどの勢いがありましたが、新宿店はダイタン商事の衰退とともに消えてなくなりました。(泣) その数軒隣に天下一ラーメンという、これまた有名なラーメン屋さんもありました。 (なんで食い物ばっか覚えてるんだろ?やっぱ、いやしいのかなぁ) さて、歌舞伎町はメインストリートにもどって、コマ劇場の隅に店を構えていた「コマ寿司」が当時の業界人の御用達でしたね。カウンター20席ほどの小さな店でしたが、役者さんやら歌手やら、ディスコ関係、キャバレー関係、クラブ関係、バンド関係と幅広く愛されたお店でした。いわゆる100円寿司で、安かったし、板さんも常時4~5人居て、活気がありました。私も月に一度の給料日は、彼女とふたりデカイ頭で寿司を食いました。 そして、歌舞伎町といえば絶対に忘れてならない立身出世物語があります。このコマ寿司の反対側の一角に「コマそば」という立ち食いそば屋がありました。今でもあるかどうかしりませんが、なんとここが、あの新宿のディスコ帝国を築いたダイタン商事の社長が、初めて手掛けたお店なのです。このお店が大当たりして、次第に喫茶、パブ、バーへと事業展開をしてゆき、その絶頂期には喫茶ツモローの全国展開と、新宿のディスコチェーンの総帥として君臨したのです。伝説のダイタン商事の発端は立ち食いそば屋から始まったという、未だお水関係で語り継がれる歌舞伎町偉人伝のひとつです。(ほんとかよ) あ~、もうちょっと、喋り足りない(笑)ので、明日、最終回ということで、もう一日お付き合い下さい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|