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ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン& オペラとクラシックコンサート通いのblog

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2022年11月21日
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カテゴリ:オペラ
新国立劇場 14:00〜
 4階左手

 ボリス・ゴドゥノフ:ギド・イェンティウス
 グリゴリー:工藤和馬
 ピーメン:ゴデルジ・ジャネリーゼ

 新国立劇場合唱団
 TOKYO FM少年合唱団
 東京都交響楽団
 指揮:大野和士
 演出:マリウシュ・トレリンスキ
 ドラマトゥルク:マルチン・チェコ

 まぁねぇ、最初に言ってしまいますが、今回はほぼ悪口しか書きません。随分な言い方しますが、どうも、そのくらい言っておかないとダメな気がするので。但し、なんというか、怒ってる訳ではないです。こういう公演がどういうものであるか、きちんと位置付けておかないとまずそうな気がするので。
 max、一応ネタバレということにはなるので、ちょっと空けときます。















 <追記:一部加筆します。尻切れトンボの段落とか、何言ってるかきちんと示してなかったりとか、流石にわからないものね。夜中書くのはダメだなぁ、やっぱり。>





 さて。
 ボリス・ゴドゥノフは、実は好きなオペラです。というか、ムソルグスキー自体が好きだと言えば好きで、その中でもボリス・ゴドゥノフは外せない大作だろうと思うので、昔から聞いてます。
 で、今回のプログラムを見ると、日本での上演は本当に少ないのですね。日本では現実問題として歌える歌手が揃わない。来日系が殆どで、直近では2010年にウクライナ国立歌劇場がやってきて上演したのが最後らしいです。多分それ観てるな....と思って調べたら、​ありました​。自分の記憶でも、その時の記述でも分かるのですが、多分私はこの時を入れてこのオペラは3回は観てます。一回がこれで、もう一回、その前に何処かで聞いていて、その前、1994年のことらしいですが、ウィーン国立歌劇場の引越公演。指揮はアバド。正直言うと、この時の記憶が一番鮮烈です。
 そう、もう10年以上も日本でボリス・ゴドゥノフって上演されていないんですね。そういう意味では、このオペラ、決定版と言える映像もあまりないので、実は結構日本人には縁遠い作品になっているのではないかと。実は、さっきちょっと調べたのですが、プーシキンの原作戯曲も手に入らないようなのですよ。岩波文庫で出ていて、昔一度復刻されたので買って読んだのですが、そういう意味では、そもそもボリス・ゴドゥノフという話どころか、これがどういう人かもさっぱり分からんという人が大多数だったりするのでしょうか。

 で。私はこの演出、全否定です。何故か?グダグダ書きますけれども。

 そもそもを言うと、この「ボリス・ゴドゥノフ」というオペラも、プーシキンの戯曲も、かなり史実に忠実だと言っていいと思います。先帝が後継者を遺さないままに亡くなり、その結果、民衆、というよりは貴族列侯に推される形で帝位に就いたボリスが、しかし、非常に厳しい社会情勢の中統治が上手くいかないままに人心を失う。そこに先帝の遺児を称する僭称者ドミトリーが外国勢力、即ちポーランド=リトアニアの支援を受けて叛旗を翻し、結果その対応に追われるままにボリスは亡くなり、その子フョードルは即位するものの結局僭称者が制圧して帝位を襲う、というのは実はほぼ通説通りのようです。この辺の経緯は、wikipediaで「ボリス・ゴドゥノフ」とか「大動乱時代」とか検索すると出て来るので、一読をお勧めします。wikipediaですが、まぁそう外れていないと思います。
 この大動乱時代、ボリスの先帝のフョードル一世の亡くなった1598年以後、ロマノフ朝の始まる1613年までの15年なのですが、ボリスの死後も情勢は落ち着かず。僭称者ドミトリーは即位後1年持たずに殺され、その後はオペラでも出て来る大貴族シュイスキーが帝位に就いたり、同じドミトリーを名乗る僭称者がまた出てきたりとか、そこに関わるのがポーランド=リトアニアやスエーデンが介入してきて、まぁ大混乱を極めた挙句に、ロマノフ朝が成立するという。そういう時代背景の中に、ムソルグスキーの、プーシキンの「ボリス・ゴドゥノフ」はあります。

 史劇としての「ボリス・ゴドゥノフ」は、そうした歴史にかなり忠実に描かれています。ムソルグスキー自身は二つの版を遺していますが、その他にお節介のリムスキー=コルサコフ版、その他色々手を入れられて上演されるものだから、何がオリジナルか分からなくなってる面はなくもなく、それ故結構色々改変されるのですが、ムソルグスキーの第一版から第二版で加えられたのはポーランドの場。修道僧グリゴリーが出奔してポーランドに向かい、そこで貴族らの支持を得て僭称者ドミトリーが蜂起するわけです。そこではドミトリーことグリゴリーのみならず、ポーランド=リトアニア貴族達も野心溢れる姿で描かれている訳で、その意味ではまぁ同じ穴の狢、なんですよね。当時のポーランドは、今もですが、カソリック教国で、ロシアは勿論正教会。そうした宗教的対立が背景にあっての権力争いでもある。
 では、そうした政治群像劇が「ボリス・ゴドゥノフ」の主題なのか?そうではないと思います。
 プーシキンの戯曲の方は、オペラと違って最後の場面はボリスの死でもなければ群衆がドミトリーを歓迎する姿でもない。戯曲の最後は、ボリス亡き後のゴドゥノフ家の邸。ドミトリー勢が押し寄せてきて邸に押し入り、遺児、即ち帝位に就いたフョードルと姉は弑虐される。集まっている群衆に向かい「皇帝ドミトリー万歳!」を叫ぶように促すのに、最後はこのようなト書きで終わります。即ち(群衆、黙したまま)。
 オペラの方はといえば、大きくは群衆が出て来るのは、第1幕の即位の前に即位を懇願する場面と戴冠式の場、最終幕の群衆、そして、版によっては略されますが、第3幕に相当する、飢饉と疫病に苦しむ民衆が助けを求める合唱。この合唱が実はこの「ボリス・ゴドゥノフ」のクライマックスとも言えると思います。この合唱こそいわば苦しむ民衆の声。ちゃんとした合唱団なら一番力を入れてくるところです。もう一つは、聖愚者。この聖愚者という存在、白痴などと呼称されたりもしますが、昔読んだところでは、ロシア社会に於いて権力者たる聖職者に相対する民衆の中の宗教的な存在のような位置付けだそうで。そういう存在がボリスに相対する存在として対置され、かつ、ロシアの苦難を嘆く歌を歌う。
 「ボリス・ゴドゥノフ」とは、そういう戯曲であり、オペラであるのです。

 で、今回の演出ではどうしたか?
 曰く、「為政者暴君説」なのだそうです。それでどういうことになるかというと、皇帝たるボリス・ゴドゥノフの描かれ方は、それほど変わったものでもありません。衣装やなにかは現代風ですが、だからどうというものでもない。今時普通。これははっきり言っておきます。現代風だから問題なのではありません。そんなことどうでもよろしい。
 改変してしまっているのは、まず、ボリスの後継者たる幼きフョードルを肉体的にハンデのある障碍者に仕立てていること。そうすることで、どうしたか。まず、聖愚者とフョードルを同一化してしまった。その上で、ボリスと聖愚者役のフョードルを対峙させてしまい、最後には、ボリスの死の筈の場面で、ボリスにフョードルを殺させるのです。最後の場面では、だから、聖愚者は登場しません。声だけ。
 これ、意味も無いけれど、本来の聖愚者とボリスのやり取りの緊張感を完全に削いでしまっています。
 この場面、つまり第3幕にあたる聖愚者とボリスのやり取りの場面を簡単に説明すると、聖堂前の広場で聖愚者を子供達がからかって、聖愚者から小銭を取り上げてしまう。そこに出て来たボリスに、聖愚者は「子供達を罰してくれ、あの先帝の子を殺したように」と求めます。怒る貴族達を抑えてボリスは聖愚者に「私の為に祈ってくれ」と頼むのですが、聖愚者はそれを断って「ヘロデ王の為には祈れないよ!」と言うのです。今回の字幕では、これを、「子殺しの皇帝のためには祈れない」とかなんとかなっていましたが、それではダメなのです。聖愚者という宗教的な存在、それに対して自らの主観では敬虔であれかしと思っているボリス、そこに下される「ヘロデ王」という断罪。無論、聖書の基礎的知識があれば、ここでいうヘロデ王がキリストの降誕=ユダヤ人の王の降誕、を予言されたユダヤの王のヘロデが赤子を虐殺させたという新約聖書の記述を述べているのだということは解る筈です。このやり取りは、仮にボリスが暴君だったとしても、この物語がただの暴君の物語では無いことを示唆していると考えていいと思います。
 もう一つは、僭称者ドミトリーの描き方。くどくどと書いて来た通り、史実通りドミトリーはポーランド=リトアニアの尖兵とも言えるのですが、今回の演出では、ムソルグスキーの二つの版の折衷版とか言ったような名目で、第1版のようにポーランドの場を削除しています。というか第1版では元々なかったのですが。それだけならともかく、第1幕と言っていいのか、修道僧グリゴリーが出奔してリトアニア国境を越えようという場面。ここでは、グリゴリーが酒場でリトアニア国境への道を尋ねるのですが、ここで尋ねているのはクレムリンへの道。つまり、グリゴリーは他国ではなくロシア国内で蜂起することになり、ポーランド=リトアニアの影は入念に取り除かれています。
 そして、そのグリゴリー=僭称者ドミトリーは残虐性を隠すこともなく、最後の場ではボリスの血を飲んでみせ、ボリス派の面々を虐殺する。そのドミトリーの取り巻きは獣の姿をしていて、獣性、残虐性を全面に出した形に。

 これ、ただの演出で済むのかどうか。
 この演出の演出家とドラマトゥルク、まぁ言ってみれば解釈責任者は、自分達ではボリス・ゴドゥノフという個人の罪に焦点を当てたもので、とか御託を述べ立てておりますが、しかし、そうであれば、入念にポーランド=リトアニアの影を拭い去り、宗教的なものを弱める必然性はないのではないか。
 この両名は、ポーランド人です。この演出はポーランド国立歌劇場との共同制作です。果たして、そこに、偏った意図は無いのか。穿ち過ぎだと?けれども、ロシアのウクライナ侵攻当初に思い起こした、​14年前のマリインスキー劇場の、ゲルギエフ編のイーゴリ公​を思えば、決してそんな簡単な話ではないように思うのです。加えて、ポーランドも旧東側という意味では、未だにオペラが表現、メディアとしての力があると見做されている気がするのですね。その一方では、ポーランドもまた「連帯」の時代から見れば40年以上の激動を経て、ある種のナショナリズムが勃興しているとも聞きます。そうした中で、こういう演出をストレートに受け取ることでいいのか?ということはつい思ってしまうのです。率直に言えばここには歴史修正主義者の臭いがします。

 ただ、それだけならばまだしも。これも諄く書いた通り、プーシキンとムソルグスキーの描いたこの史劇は、決してただの「暴虐」を描くものではなかった筈です。ただのローカルな暴君の物語ではなく、それが普遍的なものになり得ている。だからこそ、これらは「古典」たり得ていると思うのです。
 今回の演出は、敢えて言えば、それを極めて矮小な意図を以て、その古典たり得ている普遍的なものを破壊することに終始していると思います。否定されるでしょうけれど、しかし、舞台を無理やりロシアの中に押し込めて、聖的なものもぶち壊して、登場人物達を矮小化して、それで何が解釈なのか。そんなに普遍的なものをこの劇の中に見出すのが嫌なのか。そんなにこの劇の本質を歪曲したいと願うほどならば、演出しなければいいのです。他の誰かに任せるべきだと思います。唾棄すべき演出だと思います。言い換えれば、君達が幾ら歪曲したところで、決してプーシキンやムソルグスキーが創り出した普遍性は毀損され得ません。まぁ、わけわからん日本人はころっと騙されるかも知れないけれども。そういう意味では舐められたもんですよ。

 一応言っておきますけれども、それがたとえ現今の情勢に鑑みたものだとしても、絶対的に私は全否定します。別にロシア贔屓でもなんでもないのは、他の記事で言っている通り、東フィルにプレトニョフが来ること自体反対ですから。公職で禄を食んだ者がその体制を曖昧にしたまましれっと演奏することは許されるべきではない、という考えです。でも、それは、プーシキンやムソルグスキーが作り出した古典を貶めるべき、というものではないし、ましてそれが陳腐な解釈に基づいて原作が持っている普遍性を毀損することを推奨するようなものではありません。しかも、もしもそれがある種の自身の欲望に基づくようなもので行われるとするならば、幾らそれが誰かに支持されるように見えるとしても、やはりそれは間違ったもの、唾棄すべき汚らしいものと言うべきだと思います。そうではない、って当人達は主張するでしょうけれどもね。でも、これは、うっかりすれば巧妙なプロパガンダですよ。企まずしてそうであるなら尚更罪深いし、免罪されるようなものではない。その意味で、ゲルギエフがイーゴリ公でやったことと同じだし、古典としての作品を尊ぶと言う考えがない点でそれ以下ですらある。表現者としての倫理が無い。

 先ほども触れたけれども、字幕で「ヘロデ王の為には祈れない」を書き換えてしまった責任者は重々反省して頂きたいと思います。もし演出側から強く迫られたのだとしても、それは絶対に枉げてはいけなかった。そう思います。

 幾ら矮小化しようとしたとしても、ボリス・ゴドゥノフは普遍性のある古典で、私は好きなので、もう一回観に行けるのだけれども、この演出はあまりに酷い、というより作品に対して無礼だと思います。よっぽどブーイングしようかと思ったくらい。ただ、演奏は、これも気に入らないとはいえそう悪くもないので、もう一回行こうとも思うし、やめようかとも思うし。
 ともあれ、演奏やらの話は、行くにせよ、行かないにせよ、別途書こうと思います。





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最終更新日  2022年11月22日 12時59分37秒
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