カテゴリ:国際政治
第一次世界大戦(21)
挙国一致内閣の登場 長引く戦争、食糧や日用の生活物資の不足、戦場でも砲弾は勿論、軍服・軍靴・医薬品の不足、食糧の不足が目立つとなると、兵士や国民の不満は、沸騰点に達します。 ここではとりあげませんが、経済構造が最も脆弱だったロシアでは、ツァーリの政府は、この苦境乗り切ることが出来ず、ロシアは革命の嵐に巻き込まれてゆきます。 新兵器が次々に登場し、機関銃や野砲が幅を利かす,工業化された近代戦では、肉体的な武勇は問題になりません。長引く塹壕での滞在にウンザリし、物不足に悩まされる両軍の兵士達は、共に戦争を呪い、早期の講和を願って、上官の無能と横暴に唾棄しながら、しぶしぶ軍律に服し、命令に従っていましたが、16年に入ると、次第に物言う兵士達に変貌を遂げて行きます。 彼等は、抗議行動を通じて、無益な死傷者を増やすだけの突撃を止め、休暇などの面での待遇の改善を要求したのです。ここには、勝利のために,自分達にも納得できるような、確かに勝利のために戦っているという実感を得たいという、強い希望も含まれていました。 こうした兵士達の期待に応え、その欲求を汲み取り、後方にある兵士達の留守宅を保護することが出来るか否かは、兵士達の士気に直結しました。こうなると、旧来からの政党間の争いを、戦争の終結まで1時棚上げして、挙国一致に内閣を作る事が出来るかどうかが、重要になってきます。 軍需産業の増産や効率化には労働者や労働組合の協力が不可欠です。総力戦体制の中で、労働組合の地位もまた、次第に高まっていったのです。 こうした環境変化を経て、イギリスでは1916年末にロイド・ジョージを首班とする挙国一致内閣が成立し、今までの批判勢力、非協力勢力をも全て網羅した戦時内閣が登場して、強力に戦争を指導する体制を作り上げました。 フランスでも相互の非難合戦を超えて、政争を超えた強力内閣がクレマンソーを中心に組織されたのです。イタリアでもまた、軍人に対する政党や政治家の優位が英・仏と同じように確立して行きました。 これに対してドイツでは、戦局厳しき折りから,政治家がリーダーシップを取る事を嫌い、軍部独裁が成立します。対ロシアのタンネンブルグの戦いに勝利したヒルデンブルクとルーデンドルフのコンビが参謀総長と陸相として、独裁的権限を握って、戦局を切り開こうとしたのでした。 しかし、強圧的な軍部独裁によって、力で国民を抑えつけざるをえない体制では、国内のあらゆる勢力を巻き込み、一致点を見出して戦争の勝利へと邁進する挙国一致体制との間に、兵士や国民の士気の点で、大きく水を開けられていることは、間違いありません。この点でもまた、ドイツの劣勢は明らかでした。 ドイツにとって、唯一の明るい材料は、世界資本主義の最も弱い輪であったロシアが、革命によって連合国体制から抜け落ちてくれたことだけでした、しかし、それもまたドイツ兵の中に、強い望郷の念と、戦争忌避の感情を強めたというマイナスの要素も、持っていたのです。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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