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ポンコツ山のタヌキの便り

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2008年08月31日
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カテゴリ:天璋院篤姫
 今夜(8月31日)のNHK大河ドラマ「篤姫」35回目のタイトルは「疑惑の懐剣」で、家茂(松田翔太)が和宮(堀北真希)の許へお渡りしたとき、寝所の和宮の懐にキラリと光るものが見えたということから、懐剣疑惑が持ち上がります。

 私はミステリー小説が大好きな人間ですので、この懐剣疑惑の真相については「ネタばれ」をせずに伏せておくことにします。まだ今回のドラマを視ておられない方は、ぜひ今週の土曜日の再放送をお楽しみください。

 しかし、家茂が天璋院(宮崎あおい)から「あなたの本心を話しなさい。攘夷は無理ということを言うのです」とのアドバイスを受けたことから、彼は和宮に攘夷実行は国を滅ぼす結果となることを伝えたため、和宮もそのことを了解し(すぐ簡単に了解するドラマの和宮の姿には私は首をかしげてしまいましたが)、家茂と和宮の二人の「公武合体」は無事に成就することになります。

 こうして篤姫ドラマでは大奥世界の江戸方と京方のコップの嵐的いさかいは収まっていきそうですが、しかし、大奥の外では将軍家への和宮降嫁による公武合体という幕府のもくろみはなんの降嫁もあげず、おっと誤変換、効果をあげず、逆に尊皇攘夷派の連中はそのことで怒りをますます募らせます。和宮と家茂の婚儀直前には、和宮降嫁のために骨を折った幕府老中の安藤信正は水戸浪士に坂下門で襲撃されて傷を負っており(坂下門の変)、京では九条家の家令で朝廷と幕府の間に立って和宮降嫁に尽力した島田左近が暗殺され、その首は加茂の河原にさらされます。このように尊攘派のテロの嵐がさらに吹き荒れることになります。

 ところで前回の篤姫ドラマで、和宮降嫁を知った薩摩藩の誠忠組のメンバーが「和宮を人質に取ろうとする幕府の陰謀だ」と言って憤り、久光(山口祐一郎)が立ち上がらないことに不満を募らせていました。このような誠忠組の不満をバックに、小松帯刀(瑛太)や御小納戸役に取り立てられていた大久保(原田泰造)は久光に「斉彬様の遺志を継いで幕政改革に名乗りを挙げるべき」だと進言し、久光も彼等に「都へ参る」と明言していました。

 今夜の篤姫ドラマでは、久光は奄美大島から戻した西郷隆盛(小澤征悦)に上洛のことについて意見を求めますが、西郷は「京で幕政改革の勅諚を得た後、江戸に上る計画とのことですが、無謀のことと思いますので中止されたがよろしかろうと」と言い、その理由として「御当主にあらず、官位もなく諸侯との交わりも薄い久光様では江戸においてなにもできないでしょう」し言い、さらに「斉彬様とは違い、一介の地ゴロに過ぎません」とまで言って上洛計画の日延べを進言しています。

 西郷の久光に対する暴言とさ言える発言ですが、実際にこのような久光に対する西郷発言はあったようです。そのことについて、芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)につぎのようなことが書かれてあります。

「久光に、『御前ニハ恐レナガラ地ゴロ』だから公武周旋は無理だと言ったという。このことは明治十九年六月十六日、久光と会った市来四郎が『日記』に書いているので事実であろう。『地ゴロ』とは田舎者という方言で、西郷としては事実を言ったまでだろうが、久光がそれから二五年も後の、死の前年に、この話をしていることから、下級藩士から面と向かって言われた殿様育ちの久光には、よほど大きなショックだったのであろう。ただ西郷の認識も当時の常識にのっとったもので、いま久光らは、その常識をくつがえす革命的改革をやろうとしていた。といっても成功の確信はない。西郷には、それが無謀に思えたのであろうが、自分の意見が容れられないと分かると、足の痛みを理由に指宿の温泉に引っ込んでしまった。西郷は、これで隠遁するつもりだったという。
 やっと願いがかなって、西郷呼び戻しに成功した大久保は困った。有馬新七らは諸藩の尊王擾夷派の志士と連絡をとって、京都で兵を挙げようとしている。心配した大久保が三月、指宿から帰った西郷の所にやって来て協力を頼み、久光に願って西郷を先発させ、九州諸藩の形勢を視察して下関で久光の到着を待たせることにした。大久保の頼みを受け入れた西郷は、村田新八を連れて三月十三日、出発する。」

 下級藩士の西郷から「地ゴロ」呼ばわりされた久光でしたが、そのとき「無礼な奴」と言って西郷を処罰するようなことはしなかったのですから、久光も偉いですね。では久光はどんな思いで上洛計画を実行しょうと考えていたのでしょうか。

 久光の上洛計画の基本点は、大久保利通が文久2年正月14日(1862年2月12日)に摂家の近衛忠煕、忠房親子に面会して勅命の周旋を要請したときの話の内容から窺い知ることができます。その大久保の話した内容について、佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(2004年10月)にはつぎのように紹介されています。

「和宮様の降嫁を無理やり実現させたのは(まもなく二月十一日に婚儀が行なわれる)、幕府の『一朝一夕之奸巧』にとどまるものではなく、和宮を『掌中之物』にしたからには、これからどのような『邪謀』をめぐらすか計りがたい。これは『天朝之御危殆、実ニ焦眉之急』である。したがって『京地御十分之御守護』が必要であり、薩摩藩がその任に当たりたい。そのため久光が供の人数五五〇人余を召し連れて船で上京する。さらに後発隊五四〇人を下関に待機させ、船を廻送して上京させる。久光が上京したら、滞京して京都の守護に当たるようにとの勅命を下されたい。京都守衛の体制が十分に備わったところで、関東に勅使を派遣して一橋慶喜を将軍後見に松平春嶽を大老に就任させるよう幕府に要求する。また尾張、長州、仙台、因州、土佐に、皇国のため『赤心ヲ尽シ、可抽忠勤』とする勅命を下し、万一幕府が勅命に従わなかった場合は、『国家之奸賊執政安藤(老中安藤信行)速二可加誅伐旨』を命ぜられたい。そうすれば有志の諸藩が合従しての『勤王義挙』となるに相違ない。さらに勅命で関白九条尚忠を退職させ、前左大臣近衛忠煕を関白に就かせ、かつ青蓮院宮〔朝彦親王)の安政大獄以来の幽閉を解かれたい。叡慮は『徳川家御扶助、公武御合体』であると承っているが、先君(斉彬)の遺志もその通りであるから、何くまでもそのご趣意を貫きたい。」

 うーん、久光上洛の朝廷への理由付けにも「和宮を『掌中之物』にしたからには、これからどのような『邪謀』をめぐらすか計りがたい」ので薩摩藩として「京地の守護」が必要であるとしています。勿論それだけでなく、一橋慶喜を将軍後見、松平春嶽を大老に就任させる幕府の人事改革や、関白九条尚忠の退職、前左大臣近衛忠煕の関白就任、青蓮院宮〔朝彦親王)の幽閉解除といった朝廷の人事刷新こそが主たる狙いだったようですね。ただし、叡慮(天皇の意思)も先君斉彬の遺志も「徳川家御扶助、公武御合体」であると承っているとしており、薩摩藩流の公武合体路線を追求しようとしているようです。





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最終更新日  2008年09月13日 23時56分33秒
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