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カテゴリ:エッセイ
母が亡くなったのが16年前の2001年1月15日でしたが、諸般の事情により今日1月14日に十七回忌の法要を行いました。 お坊さんの長い念仏を聞いている間にいろいろ生前の母のことを回想し、特に若い頃の母と年老いた頃の母との相違に驚いたことが思い出されました。 よく最近になって耳にするのが、知人の近親者が年を取って怒りっぽくなったという話なんですが、これは老化に伴う自己抑制力や理性の低下が原因しているとよく言われます。それに対し、私の母は年を重ねるなかで性格が非常に丸くなって行ったことに驚かされたものですが、それはやはり母が理性の人だったからだと思います。 若い頃の母は父の浮気に激しい怒りを表し、社会における男女の不平等に憤り、古くからの伝統的なものも全て因習的なものとして毛嫌いしていました。しかし歳を重ねるなかで性格が穏やかになり、なにかあるとすぐあいかわらず怒鳴り出す夫に従順な妻に身変していました。考え方も保守的になり、奈良市の油留木町にある先祖の土地を絶対に他人(ひと)の手に渡してはならないと言い出したことには大いに驚かされたものです。 油留木の家は幕末に建てられたもので、先祖代々に渡って東大寺の寺侍だった太田家の武家屋敷風の建物でした。しかし明治になって失職した太田家の先祖(私の曽祖父は太田頼傳とのこと)は困窮して家と土地のほぼ半分は手放したそうです。私の両親は祖父からこの奈良の油留木の古い家を受け継ぎ、私たち一家はリホームを何度も繰り返しながらこの家に長年住んでいたのですが、両親も私もそれぞれ仕事のために奈良から離れ、油留木の家は知人に貸していました。 私の両親は退職後、鹿児島市に住む息子である私の家の近所に新たに家を建てて移り住んで来たのですが、母が奈良の油留木の「先祖の家」を絶対手放すなと言い出しました。太田家の菩提寺に両親が墓参りしたのは、祖父母が亡くなり納骨式を挙げたときくらいだったと記憶しています。それだけに母が太田家の先祖の土地を守れだの手放すなと突然言い出したことには驚かされたのです。 しかし母が他界し、また奈良の油留木の家に住んでいた知人も亡くなった後、私は父と相談してこの油留木の家を取り壊し、土地を隣人に売り渡すことにしました。私にとってこの油留木の家には「辛い思い出」が山積しており、父も「先祖の家」に対する執着など全くなかったからです。 奈良の油留木にある「先祖の土地」を隣人に売り渡してほぼ半年後の夏の暑い日、私は妻と一緒に鹿児島から奈良を訪れましたが、百坪近い「先祖の土地」はまだ敷地内にコンクリートを打っている最中でした。そしてその土地は驚くほど狭くて小さなものでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年01月17日 07時29分09秒
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