行く年の最後に(UFO目撃年表に追加)
夕陽が静かに沈んでゆきます(写真は12月29日の夕日)。今年もあと数時間。時があっという間に過ぎていきますね。ところで、やり残したことがあったので、ここで記しておきます。実は今年2月21日にテレビ東京が放映した番組「世界が騒然! 本当にあった衝撃ファイル」で、1985年に全日空の機長が四国上空で全長数百メートルという巨大葉巻型UFOを目撃、他の航空機や管制塔もそのことを把握していたということを紹介しておりました。その番組。この番組放映時、私はちょうど『UFOと交信すればすべてが覚醒する』(河出書房新社)の最終校正作業中で、無理をすれば後付けの「UFO関連年表」に挿入できるなと思ったのですが、調べている余裕がなくて、断念してしまいました。しかし後になって、その判断が誤りで、無理してでも年表に入れておくべきだったことがわかります。この全日空機長UFO母船目撃事件が非常に重要な意味を持っていたことが判明したからです。つまり目撃の日にちが1985年10月8日だったことです。そう、ちょうど1986年11月17日に日航機長がアラスカ上空で巨大UFOと遭遇した事件のほぼ一年前に、全日空の機長が巨大UFOと遭遇していたことに大きな意味があるわけです。後付けの年表(202ページ)をご覧ください。最初に1984年12月18日に水産庁の調査船「開洋丸」が大西洋南西部のアルゼンチン沖でUFOを目撃します。その次が、約10か月後の1985年10月8日、全日空機長(乙訓昭法氏)が四国上空で葉巻型UFOに遭遇した事件です。しかもこの日には、東日本や西日本各地でUFO群が目撃される異常事態が起きていました。乙訓昭法機長だけでなく、東亜国内航空の4機の機長、日航機長、自衛隊機のパイロットら計13機がUFOと遭遇、地上でも甲子園球場などで多数が目撃していたんですね。時間は午後7時52分ごろから56分ごろまでです。その時の事件の内容はこちらのサイトが詳しいのでご覧ください。→主なUFO事件 | Aerospace News Agency Sapporo - パート 10同時刻に日航の秋元機長、TDAの前川機長らも同じ葉巻型母船を目撃していた可能性が高いことが地図からわかりますね。そして1986年11月17日に日本航空の寺内謙寿機長らがアラスカ上空でUFOを目撃。さらにその一か月後の1986年12月21日に開洋丸が中部太平洋のウェーク島そばで巨大UFOに遭遇、レーダーにもその機影が捉えられるという事件が起きたわけです。つまり1984年から86年にかけての一連のUFO遭遇事件は、意図的に、地球人、とくに日本人にUFOの存在を知らせるために目撃させていた一大イベントだったことが推定されるわけです。ということで、202ページの年表には、「1985年 全日空機長ら四国上空で葉巻型UFOに遭遇。ほか13機がUFO目撃、地上の目撃も多数(10月8日)」を挿入していただければと存じます。乙訓(おとくに)機長は当時このことをあえて公にはしませんでしたが、退官後の2006年1月17日、岸和田健老大学の講演会でその詳細を明かしました。その際、乙訓氏が描いた葉巻型UFOがこちらです。これはまさに『UFOと遭遇すればすべてが覚醒する』の99ページで紹介した河口浅間神社の葉巻型母船の見え方と同じであることがわかりますね。最初は一つの灯しか見えないのですが、横を向いたときに前と後ろに光源が二つあることがわかるわけです。母船の周りには何機もの小型UFOをはべらせて、船体には窓があったとまで乙訓機長は言い切っておりました。全日空機のやや上空を信じられないようなスピードで太平洋の方へ飛び去ったと証言しています。「全長は200~300メートルと思うが、2キロとも思われる」と記しています。ところが、当時このように信頼のおける人たちによる詳細な巨大UFO目撃の証言があるにもかかわらず、当局(日本LATとNORAD)が「旧ソ連が9月26日の人工衛星の打ち上げロケットの残骸説」を発表したことから、多くの人はそちらの方を信じてしまったわけです。寺内機長の目撃を「星を見間違えたのだ」と曲解する自称専門家の人たちも同様にふざけています。そもそもUFOを見たこともないのに、既存の物や現象で説明しようとするから、このような変な説が出回ってしまうのです。UFOを見たことがない人にUFOの解説をさせるのは、近代科学を知らない原始人に飛行機の説明をさせるようなものなのです。「大きな鳥が音を立てて飛び去った」としか彼らは説明できません。「星を見間違えたのだ」とか「打ち上げロケットの残骸だ」と言うのがせいぜいなわけです。乙訓氏の講演会の様子はこちらをご覧ください。乙訓昭法 - 検索 画像 (bing.com)さて、それはともかく、良いお年をお迎えください。