何となくバリアフリー
随分昔、現長野県知事が若かりし頃書かれた「何となくクリスタル」という小説が話題をさらった時代がありましたが、今回のタイトルはそれをもじったものではありません。自然と共に存在する建築で知られる建築家内藤廣さんが“何となく”主張されている現代社会に対する挑発的コメントです。高齢社会がひたひたと足音を立てて迫る昨今、世の中「何が何でもバリアフリー」「何が何でもユニバーサルデザイン」という風潮が強くなっているけど、それはちょっとおかしいんじゃないかという指摘です。バリアフリーやユニバーサルデザインというのは、社会全体に欠如している「思いやり」のツケをデザイナー一人に回すようなもの。本当は、ヒューマンケアとか社会全体のソフトウェアで対応すべきものなのではないか。他人を思いやる心とか、他人の痛みを思いやる心とか、時間の流れをもっとゆるやかにするとか。そういう努力や工夫の方が重要だと彼の主張は続きます。彼は、ある日怪我をして歩くのがやっとという一時的な障害者になっった経験から上記のように思ったそうです。あまりにスピーディーで忙しい現代社会の中で、一時的にせよ障害者やお年寄りの立場になったからつらいと感じたのであって、時間がもっとゆっくり動く社会であったら、10分でたどり着く所を15分、20分かけてもいいという社会がつくられれば、障害者や高齢者の人たちも、もっと楽に生きていけるのではないかと思ったというのです。というようなことから、内藤先生は建築や都市について「何が何でも」ではなく「できるだけバリアフリー」や「何となくユニバーサルデザイン」が相応ではないかと主張されているわけです。「野山をバリアフリーにしたって仕方がない。それよりも心のバリアフリーや心のユニバーサルデザインの方が大事。要は他人を思いやる心が肝心ということです。」とは、彼の主張の最後の一言ですが、同感です。「何が何でもバリアフリー」「何が何でもユニバーサルデザイン」という発想は、これまで利便性や効率性をひたすら追い求めてきた高度経済成長時代とテーマがすりかえられただけで、本質は何も変わってないと思うのは僕だけではないような気がします。