かこさとし「あわびとりのおさとちゃん」(2014年、株式会社復刊ドットコム)
安保法案が成立した。この事実については、色々と思うところがあるので、別途独立した記事を必ず書きたいと思う。今回、ご紹介したいのは、絵本「あわびとりのおさとちゃん」。作者は、加古里子(かこさとし)さん。「カラスのパンやさん」や「どろぼうがっこう」、「だるまちゃんとてんぐちゃん」等、世代を超えて子どもたちに読み継がれる名作を世に送り出してきた方だ。細部まで凝っていながら親しみのある絵の筆致、リズム感がありつつもしっかりとした日本語で書かれた台詞、まさしく日本を代表する絵本作家である。そんな加古さんの作品だから、まず間違いはないだろうと、子どもたちと一緒に行った図書館で、ジャケ買いならぬ作家買い(?)の結果、選んだこの本だが、最初に読んだ時から余りにも悲しいストーリーに心が震えた。小さな入り江に住むおさとちゃん一家が、海の魔物、庶民を自分の踏み台としか考えていない名主等に翻弄され、最後には、おさとちゃん自身が命を落とすという展開で、いわゆるめでたしめでたし、ではまったくないお話である。一人の力ではどうしようもできない圧倒的な世の不条理、不条理に負けてしまう人間の脆弱さ、権力を持つ者の凄まじいまでの醜さと卑怯さ、虐げられた庶民の燃え立つような怒り、守りたいもののために敢然と立ち向かう人間の美しさと悲しさ、一つの絵本に沢山の要素がぎっしり詰まっており、何度読んでも、その度に、心の様々な部分に、その都度、異なる言葉が沁みていく。私の目がじわっときてしまう場面は、おさとちゃんが、名主の悪巧みに気付いた後、お社にお供えしてあった餅や団子をお腹を空かせた幼い弟たちにやる場面。「ねえちゃん、こんなおいしいものどうしたの」「そんなこと、しんぱいしないで、たくさんたべな。いいかみさまからもらったんだから」「ねえちゃんもたべなよ」「うん、ねえちゃんは、もういいよ。おなかがいっぱいになったら、おとなしくねるんだよ」「うん」おさとちゃんは、弟たちを寝かしつけた後、決死の覚悟で夜の海に向かい、海の魔物と闘い、そのまま帰らぬ人となった。下記は、息も絶え絶えのおさとちゃんの最期の台詞である。「このままでは、おかあのようにたべられてしまうだけだ。けれど、こういうまものがいたのでは、おとうやおとうとやむらの人が、あんしんしてくらしてゆけないし、ずるいことをするやつがでてくることになる。そうだ。」元々は1979年に発表された作品で、加古さんがこの作品に込めた想いが後書きに綴られている。引用しておいてなんですが、作品本体と切り離してしまうと、この後書きの意味はまったく伝わらないと思います。人間には、許し難い不条理の中でも、どんなに辛く悲しい逆境にあっても、自分の使命を果たして敢然と生きていく責任がある。是非、絵本本体を手にとって頂きたいです。子どもたちをふくめて、私たちの今の生活の政治や経済や文化などの面は、昔の不合理でかたよったものから、ずいぶんよくなってきています。そのようになったのは、恵まれなかった人たちの強い要求の結果であり、その先頭にたって敢然と身をていして闘い、時には犠牲になった人のおかげです。その中には歴史に名をとどめている人ばかりではなく、無名の、そして、幼い子どももいたことが、口から口への語り草や伝説となって残っています。この本で描いた「おさとちゃん」もその一人ですが、たんに悲しい物語を知っただけではなく、人間はどう生きなければならないのか、真に生きるに値するような生活をきずくために努力し、そして大切な生命をささげても守らなければならないもののためにこそ、死もおそれずに行動できる強さを、今の子どもにも、親たちにも静かに考える機会をもってほしいのが私の願いです。子どもの自殺や殺人が、報道されている今、特に強く思います。(9月26日追記)一旦、記事をアップした後、おさとちゃんの読後感に既視感がある、何だろうかこの感覚は、と考え続けて、気付いた。小学2年生の時の教科書に載っていた「スーホの白い馬」(1967年、大塚勇三再話、赤羽末吉画、1967年、福音館書店)を初めて読んだ時と同じ感覚だ、ということに。あらすじを説明する必要がない程有名な作品だと思うが、若い青年スーホが家族同様に愛しんでいた白馬を横暴な殿様に奪い去られたものの、白馬はスーホの元に帰るべく、追っ手がかかる中必死に逃げ出し、何とかスーホの元に戻ったが、その晩、深い傷と疲労のために亡くなった、という、これまた余りにも悲しい話である。8歳だった私は、教科書で初めてこの作品を読み、悲しくて涙が止まらなかった。白馬もスーホもかわいそうでならなかった。白馬は馬頭琴という美しい音色を奏でる楽器に生まれ変わったが、それで、スーホも白馬も良かったね、めでたしめでたし、とはとても思えなかった。同時に、何故横暴な殿様の理不尽な振る舞いのために何一つ悪いことをしていない白馬は死ななければならなかったのか、スーホが大切な家族を奪われなければならないのか、疑問が抑えきれなかった。家族や先生といった周りの大人に、幼い子故、さぞ稚拙な表現だったと思われるが、随分、尋ねた記憶がある。誰からも納得できるような答えを聞けなかった私は、この時、初めて、世の中には圧倒的な不条理が存在すること、そしてその不条理の中で生きていかなければならないことがあること、を悲しみの中で体感した、と思う。そしてまた、その不条理は、自然災害や天変地異といった外部の要因ではなく、人間、もっといえば権力を持つ者が作り出すことがあるのだ、ということを体感したような気がする。おさとちゃんの運命にここまで心を揺さぶられたのも、単純に「海の魔物」といった異形の怪物だけではなく、名主に代表されるゆがんだ人間の思惑に、おさとちゃんの人生が左右されているということに8歳の頃と同じように心が共振したのだろう。おさとちゃんを通して8歳の自分と再会したことに心から感謝したい。そして、その感謝を書き留めておきたいと思い、追記した。