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カテゴリ:福岡いいとこ一度はおいで
![]() 博多と、菅原道真は、切っても切れない間柄である。 中央区今泉1丁目5番地に、「容見天神故址」と刻まれた石碑【写真】が、民家の庭先にひっそりと立っている。 毎日、この家の前を通る人は多いが、ほとんどの人が、この石碑の存在を知らないと思う。 現在の中央区天神1丁目にある水鏡天満宮は、1612(慶長17)年に、初代藩主黒田長政が「容見天神」を現在の地に移し、「水鏡天神」として祭った神社である。 博多と「天神」様とのかかわりは、この「容見天神」に由来する。 平安時代の901(延喜元)年辛酉一月、右大臣従二位菅原道真は左大臣藤原時平の謀略にかかり、突如として大宰権帥に左遷される。 翌二月一日、従者の味酒安行(みさけのやすゆき)と共に京を発ち、摂津のあたりより舟出して、海路、瀬戸内海を経て博多の袖の湊(そでのみなと)から上陸した。 上陸後、陸路で、大宰府に向かって出発する際、庄村(現在の今泉あたり)の四十川の水面に、自分のやつれた姿を写し、その不幸を嘆いたので、庄村の村民たちが、ここに社を建て、道真をまつって、容見(すがたみ)神社と名づけた。 ※私が小さい頃から遊んでいた「どぶ川」の「四十川」には、 こんな由緒ある歴史があったことを知ったのは、30代になってのことであった。 黒田長政が、この神社を現在の水鏡天満宮に移した頃、当時の天神は、さむらいの町で、明石、林、櫛橋、立花、毛利、大音などの上級家臣が軒を並べていた。 それが、明治時代に商店が進出はじめ、官庁街も発展して、現在の「天神」を構成している。 ![]() 水鏡天神天満宮【上の写真】の縁起に、 味酒安行という者一人供奉にて、博多より宰府え赴き給う道に川あり、水鏡を御覧ありしに御衰ましまして亡霊の如きと御歎きありしより、号してこの川を死時有川(四十川)と云う。この浜辺にての御歌、・・・・・ 「北浜のにしにあるさへおかしきに、渚にちかき沖の浜かな」と遊ばして爰に御心をとどめ、しばらく御休息あり、御跡に叢社を建て、水鏡の天神と崇奉申すなり。 と書かれている。 現在の「天神」の地名は、天神様(菅原道真)を祭るこの水鏡天満宮が江戸時代よりこの地に鎮座することから名づけられたのですぞ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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