気づき石の先にあるものは
なぜ、石を好きなのか、心から好きなのか、ずっと遠い昔の記憶からかこころで、聞いてみて。そして、石は、人が生きる上で、数ある中の一つの執着、嫉妬、貧困意識、不安、傲慢などの、親、今の経済などから、洗脳された状態から、開放するためのツールだけのことで。この神理、哲学が少しでも、理解できれば一人ひとりの生きてる使命が、見えてくる。今、の姿を客観的にみることができ現実を自分が作っていることに気が付きさ、そこからどうする?って自分に問いかけられたときから、道が開ける。そこまで、のツールとして石がありそして、そこからのツールとしても石がある。必要なときに、必要な石が現れ必要がなくなると消えていく。最後は、石が好きならパートナーとして石が必要でなければ、感謝して手放す。結論は、石が無くても、その道を、神理を、哲学を、光の方に意図を放てば、向って行けるし意図を放ったあとに、石が出てくるときもある。石が、あればその人の現在地、立ち位置からそれぞれの体験、経験、出来事を起こし、それさえも最後は石のせいにしないで、生きられる、自分が起こしているんだって気づかせる、ツールになる。それが、石の役目で、パートナーとして生きるか。もしくは、石のせいにして、手放しまた、新たな気づかせツールが、届くだろう。そんな、感じで、同じループをぐるぐる回るかそのループを抜け出せるかそれは、無残な体験で知るかもしれないししらないでそのまま、次にいくのかそれぞれだとも思うけど。結論、最後は、自分自身に尽きる。いかに、自己完結、自己責任のなかで慈愛も統合し生きられるか。その神理を、哲学を、知ることだと今は、思う。石は、あっても、いいし、なくてもいいもの。そこに、地球からギフトで地球が崩壊しない限りあり続ける、唯一、存在する目に見える世界で1個しかない物にちがいない。この世の中で、信じられる究極のその人にとってのピュアーな偶像のものにもすることができるもの。そこには、宗教がない、自己完結の姿を見ることができる物。だから、石は、すばらしい。感謝 BY SHU♪A そして石は自己完結して、シェアーする自分がいる。