著者の義弟がサウジ駐在のフランス系保険会社の中東ジェネラル・マネージャーであるという関係で・・・・
サウジの中のフランス人社会というまるで人類学的体験のようなお話になっています。
(最も禁欲的な国の中に、最も享楽的な人種の租界があるというパラドックス)
この著者の特殊な立場がなかったら、描き得なかったサウジアラビアのお話なんでしょうね。
とにかく「パラドックス・パラダイス」という副題が、この本の魅力を一言で表わしています。
【不思議の国サウジアラビア】
![サウジ](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/f19e1674cbabe4a1505e1b45265256bd3489b0cf.26.2.9.2.gif)
竹下節子著、文藝春秋、2001年刊
<「BOOK」データベース>より
一日五回の祈りタイム、家に閉じ込められる女性たち、金曜日ごとの公開処刑ーいかにも窮屈で恐ろしげな事前情報を手に現地を訪れた著者が見たものは、生活コストが安く、女性は働くことさえなく、政治活動や組合活動の必要もない、この世の楽園だった。されど、我々が追い求める幸せは、こうした豊かさの延長線上にあるのだろうか?黒いヴェールに閉ざされたイスラム大国の「五つのパラドクス」を解きほぐし、真の幸福の意味を問いかける。
<大使寸評>
この著者の特殊な立場がなかったら、描き得なかったサウジアラビアのお話だと思うわけです。
とにかく「パラドックス・パラダイス」という副題が、この本の魅力を一言で表わしています。
rakuten不思議の国サウジアラビア
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サウジ出張先の現場で大使が接した外国人といえば、フィリピン人とインド人でした。
それはサウジでの典型的な外国人労働者の実態であったことが、この本を読んでわかったのです。
<外国人労働者の立場>p120~126
できるだけ異教徒や外国人を排斥したいはずのサウジアラビアが、しかし、今、多くの外国人を受け入れるようになったのは皮肉だ。メッカ巡礼は別として、膨大な数の外国人労働者がいるのだ。これも石油マネーの魔法で、要するに、金持ちになったサウジアラビア人がブルーカラー労働をやりたくなったことの帰結である。
リヤドの街で見かけるのは圧倒的に外国人の姿だ。人口の半分以上が15歳以下という若い国であり、女性はほとんど働いていないから、サウジ人の就労率は20%台に過ぎない。しかも、農場経営者や商工業のパトロンなどを別としてサウジ人には公務員が多く、オフィスワークがほとんどだから、昼の通りでサウジ服に頭巾をかぶった人を見かけるのは少ない。ただし車を運転をサウジ人の姿は多く、左右の見通しの悪い頭巾を上にからげている人もいる。
街の通りでも目に付くのは外国人労働者で、実数もサウジ人の倍以上である。街ではいたるところに建築中の建物があり、工事現場にいるのもみな外国人だ。外国人労働者のうち四分の一以上がインド人だと言われている。その理由はいくつかある。インドは英国との関係が深いので、英語を話せる人が多く、最初にサウジアラビアに投資したアングロサクソン人とのコミニュケーションに便利だった。また、前述したように、いわゆるアラブ人同士はもともと独立性が高い部族だから、ライバル意識が強くあまり仲が良くないので、できるだけ非アラブ系の外国人労働者を導入しようとしたわけだ。特にアラブ間政争の頻発した1975年以降の傾向である。同じアラブ人同士の湾岸戦争の後は、ヨルダン人やイエメン人の労働者が、それぞれの国がサウジアラビアに味方しなかったということで一掃されたこともある。
(中略)
多くの国では、外国人の非熟練労働者というと、有形無形の社会差別の対象になっているのだが、不思議なことにサウジアラビアではこれも他の国とちがう。まず数が多い(全人口約2千万人のうち約三分の一を占める)ので、差別などしていられない。いわゆるマイノリティではないのだ。リヤドの空港にずらりと列を作って辛抱強く入国手続きを待たされる小柄な東南アジアの女性たちを見ていると、奴隷市場を目にしたようなショックを受けるのだが、さりとて対象群となる「自由な女性」の姿が少なすぎる。フィリピン人のメイドなどが、ヴェールはしているものの顔は出したままでスーパーに一人で買い物に来ていたり、連れ立って子供たちを外で遊ばせているのは目にするのに、夫の影のような、黒い幽霊のようなサウジ人女性の姿はめったに見ないし、その姿はメイドたちに比べて自由そうでもない。外見は同じアバヤだから裕福そうにすら見えない。
(中略)
差別といえば、この国では非ムスリムというだけで白人ビジネスマンですら、ある種の差別を受けているし、ムスリムでちゃんと祈りにいくインド人運転手の方が非ムスリムの雇い主よりも偉いような部分があるのもおもしろい。フランスのように、旧植民地のアラブ国(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)からの移民が多く下層階級の大部分をなしていて、もちろん差別もされているというような国から来ると、非常に不思議な印象を受ける。
フランス人は、たいていの外国でなら自分たちが大使館の外交力で守られていると安心しているのだが、サウジアラビアでだけはこの確信が揺らぐ。外国人でも麻薬を所持していたりすると公開処刑でどんどん首を切られるのを見聞きするからだ。
(中略)
とは言っても、一般にヨーロッパ人は、植民地支配の名残で非ヨーロッパ圏に住むと植民者的な横柄な態度をとることが少なくないが、サウジアラビアではアラブの誇り高さに圧倒されてみな一応神妙にしている。この国はさまざまな先入観を相対化してしまうだけの力を持っているということだろう。
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2001年時点で、著者はサウジの現状と行く末について次のように語っています。
なかなか鋭い洞察になっていますね。
<豊かな時代は終わった>p175~178
「金持ち」であり続けるということ自体も難しくなっている。サウジアラビアの人口増は毎年4パーセントの伸びで、世界一と言われる。近代医療技術の導入で乳幼児死亡率が大幅に低下した。リヤドの人口は70年代、80年代に倍々で増えた。結果として、この20年にサウジ人の平均購買力は5分の2になったと言われる。これまで安い値段で貴重な水を提供していた水道局も民営化の動きがある。各種補助金の削減や公共料金値上げの対策も次々と検討されているところだ。社会保険のシステム導入もようやく視野に入ってきた。未成年が過半数を占め、女性が働かない国での膨大な不労人口を、国が税金を取らないで養っていくのが苦しくなってきたのだ。国営企業では大々的なリストラが始まろうとしている。すでに、1998年12月に開かれた湾岸6カ国サミットで、アウジアラビアのアブドウラ皇太子が「豊かな時代は終わった」と宣言して各国民に倹約と経済的自立とを呼びかけたのは記憶に新しい。
また、他部族を懐柔するため広く姻戚関係を作ろうとして何十人もの子供を持ったアブドウルアジーズ以来、実に2万人に達するといわれる王族の問題がある。彼らは国民総生産の三分の一を消費すると言われるが、そういう消費を支える石油収入にも限界がある。石油輸出国機構(OPEC)の決める生産枠に縛られているので生産高を大きく増やすことは不可能なのだ。空港も王の私物であり王族はみな無料で旅することができるが、絶対数が増えては航空会社は成り立たないわけで、サウジ航空も民営化の動きが出ている。
もう一つの大問題は、外国人労働者の多さだ。サウジ人はきつい仕事や汚い仕事、非熟練労働などにまったく就かないくなったので、労働意欲そのものが低下してしまった。しかも今後5年間で百万人以上の若者が労働市場に参入する予定だ。数だけ増えるので、高い教育を受けても就職できない若者はたくさんいる。
この「普通のサウジ人」たちの「豊かさ」が危機に瀕しているのだ。サウジにはかなりの数の王族や大金持ちが国の頂点にいて、そのすぐ後の脇に「先進国」のビジネスマンやエンジニアがいる。「中流の上」が、国の福祉によって養われ「管理職」群を形成するサウジ人で、「中流の中と下」は、みな移民や外国人労働者が占めている。そしていわゆる下層階級はなく、国のシステムからほとんど独立している遊牧民のグループが全体の4分の1ぐらいとなる。
(中略)
つまり、普通の人みなが欲望の充足を得られるシステムというのは、その蔭で搾取される弱者がいるということであり、「みな」の部分の人口が増え続けると支えきれなくなるシステムだという当たり前のことなのだ。環境破壊で自らの首を絞める可能性も含めて、問題点は「豊かさ」の持続可能性である。アメリカ式の消費経済至上主義の極北にあるものが「みなが豊かなユートピア」だとしたら、それを可能にするのは弱者の搾取であり、その先に待っているのは内部からの崩壊なのかもしれない。サウジアラビアの現在はそれを暗示している。
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この本も
サウジアラビアあれこれ に収めておきます。