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私などが、風向き予報をアップしていることを 不安をあおると、苦々しく思っておられる方がいらっしゃいます。 そう思われるのは自由ですが、 これは、思想信条の自由、基本的人権にかかわることだと思います。
たとえ、少しの危険でも、危険性がある限り、 注意を呼び掛けるのは、私の信条です。 社会に迷惑をかけるかもしれないから、やめとく、というのも 「立派?」なお考えでしょう。 要は価値観の問題です。
個人が、この判断を求められる状況で、「ダイジョウブだあ」というのは 自由です。しかも、ある種の合理的な理由もあります。 だからと言って、少しでも危険を避けようとしている人を、 非難するというのは筋違いです。
さらに、政府や自治体は、たとえ個人的には、いろんな判断があっても 命に関わる危険性が、十分合理的に示されているならば、 「たとえ一人でも、子どもを殺さない!!」 と固い、固い決意を示すのが、当然の役割だと思います。 経済的な復興は、その次ではないでしょうか?
これは、北朝鮮の拉致被害者を取り戻す、固い決意が 様々な思惑から、頓挫しているのと同じ構造に思えて仕方がありません。
一人の子どもが、命の危険にあるならば、 国の総力を挙げて、救うのは当然じゃないでしょうか? これは、経済の問題じゃないのです。 国家の存在意義の問題だと思います。
放射能は、目に見えないし、今すぐに何か起きるわけではありません。 それをいいことに、何もしないのは、(注意警報さえ出さないのは) 責任逃れの人間のクズだと、私は思います。
もちろん、違った価値観があって当然です。 それを否定するわけではありません。 社会全体の総合的な財産を守る方が大切だという考えもあるでしょう。
しかし、私は、全く違います。 特に私は極端です。 一人の子どものためには、10人の大人が死んでもいいと思っています。
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