イグアスの滝、ナスカの地上絵、マチュピチュへの旅立ち その17・ マチュピチュ観光(その2)~オリャンタイタンボ村~クスコのホテル
更にマチュピチュの観光を続ける。ワイナピチュ登山への入り口まで行き、ここから引き返しながらの散策を進める。中庭越しにインティワタナが頂上に見えた。建物越しに、「日時計(インティワタナ)」を見る。遠く見張り小屋と街並みが一望できた。手前には「庶民の居住区」。「見張り小屋」の先にはマチュピチュ山が聳える。リャマの姿が。インカ帝国においては、重要な儀式の際に生贄として捧げられたといわれる。特に、真っ白な毛のリャマと濃いこげ茶(黒に近い)のリャマは生け贄用として珍重されていたらしい。マチュピチュ中央市街地の「貴族の館」入り口の門。何故か上部に木材が使われていた。貴族の住居は大きな石を隙間なく積み上げてあるが、庶民の住居は不揃いの小さな石が積み重ねてあった。いつの世も庶民は大変なのだ。この辺りで青銅器や土器が多く見つかったことから、この地域は「技術者の居住区」と言われている。そこに建つ小屋のひとつには、内部中央に丸い石がふたつあるが、利用目的ははっきり判っていない。ハイラム・ビンガムが発見した当時、彼のガイド役を務めた地元の少年がこれを石臼にして食事の準備をしたことから、石臼と呼ばれる根拠になったと言われている。最近では、これに水を張って直視出来ない神である太陽を、間接的に見るための水鏡であると説明したり、夜間の天体観測を行ったと説明したり、各種説明がなされているようだ。「技術者の居住区」に入ると、直径60cmほどの丸い石が並んでいた。「天体観測の石」とも呼ばれている。石臼という説もあるが、水を張って、鏡または反射鏡として使ったのではないかとも言われていると。出口門からアンデネス(段々畑)とマチュピチュ山を見る。「コンドルの神殿」。「コンドルの石」盗まない・怠けない・だまさないの掟を破ると刑が下されたと。「コンドルの神殿」を振り返る。コンドルを連想させるような建造物。神に祈りを捧げる神殿であったと。 囚人を閉じ込めた牢獄だったという説も。アンデネス(段々畑)とマチュピチュ山、中腹にはインカ道が見えた。石積みの壁の間を進む。リャマ達がのんびり草を食んで。貯蔵庫と手前にアンデネス・段々畑。再び白き山頂の山を。「水汲み場」。街の中には16の水くみ場があるという。すべてマチュピチュ住人の生活用水に使われた。畑にひかなかったのは、朝から立ち込める霧が十分畑を潤したから。この水の量から、マチュピチュの住人は多くても750人程度と推測されていると。石の壁から流れ出す水は、遠くの山から石の水路を使って引いているとされるが、水源は特定されていないのだと。石の階段に沿って水が流れていた。陵墓と呼ばれている、「太陽の神殿」の下部。「太陽の神殿」。陵墓の上が美しい曲線の太陽の神殿 マチュピチュのなかでもとくに精巧な建造物 。インカ族の3つの神聖な空間とされる 死者の世界・生者の世界・神の世界を表している と。神殿の中は工事中とのことで入れなかった。石をブラシで洗っていた。ここが「陵墓」の入口であったのだろう。こちらでも。右と左の石積みの精度が異なる場所。この上に上がりたかったが・・・。美しいカーブを描いた壁と日の出の方角を向いた窓が巨大な石の基礎の上に建ってた。ネット👈リンク より。「太陽の神殿」の正面側への入り口。下の部分の穴は歴代インカの墓という意味で「陵墓」(Tumba Real)と呼ばれていると。陵墓に向かって左側に進むと、女王の宮殿に通じる道があり、一枚岩の階段があった。マチュピチュ内に数か所ある一枚岩の段々であるようだ。階段を上った場所にあったのが、「女王の宮殿」と呼ばれる場所。そして再びワイナピチュ山と歩いて来た遺跡群を振り返る。居住街が一望でき、右側に「太陽の神殿」。左斜の階段を登っていくと、市街地入口の門に辿り着くのであった。ワイナピチュ山を挟んで左に「インティワタナ」、右に「3つの入口の家」方向。出口にだいぶ近づく。上部に「貯蔵庫」の一つ。マチュピチュにバスで登ってきた、曲がりくねった白い道が見えた。約3時間の散策で、マチュピチュ遺跡出口へ。ツアー会社から「登山証明書」2009.06.10 をもらう。約2時間半でマチュピチュのフルコース(赤+青のルート)を巡った。左斜め上が入り口、そしてワイナピチュの峰に向かい右の赤い道を。そして青の道を戻り、再び赤の道に入り帰ってきたことになる。昼食は唯一遺跡内にある「サンクチュアリーロッジ」にて。レストラン内は満席であった。遺跡内で昼食後、シャトルバスで下山の途に。ホテル「サンクチュアリーロッジ」の看板。シャトルバスでマチュピチュ駅(アグアスカリエンテス駅)に到着。インカ風模様生地など並べたショップを覗いてみた.総じて原色が多用され,ちょっと派手目,楽しい絵柄が目立つ.こうしてまた高原列車の駅に向かった。アグアスカリエンテス駅発、13:58発の高原列車に乗車。来る時は乗車券の合計は、39US$であったが、帰りは32US$と何故か安い乗車賃 :US$ 26.89Tax 19%: 5.11 Total : 32.00ウルバンバ川沿いの浄水設備。帰りの高原列車の車窓からもいくつもの遺跡が確認できた。ウルバンバ川と遠く雪を頂いているアンデスの山。白き山頂をズームで。民家そして吊橋が見えた。山肌に緑はほとんど無く。周囲の山もウルバンバ川に浸食され。約1時間半でオリャンタイタンボ駅へ到着。マチュピチュからの途中にあるインカの大要塞・オリャンタイタンボの村に立ち寄る。石畳の路地を歩く。道の中央に排水路が整っていた。村の中の小路で少年がインカの歌を歌ってくれた。そして村の小道で山羊を抱く女性。ある民家の中へ入れてもらった。ここではモルモットを食べているという。たくさんのモルモットが餌を飯でいた。室内の棚には祖先の頭蓋骨が祭壇に置かれていた。スペイン軍に侵略される中、ここオリャンタイタンボを要塞としたインカは一度も敗れなかったという。階段状のものは段々畑。これもインカを印象づける遺跡で、インカの壮大さを存分に物語ってくれていた。やはり対岸の山にある見張り小屋、あるいは穀物倉庫といわれる遺跡。段々畑の上に、オリャンタイタンボの要塞があり多くの観光客が登っていた。対岸の山にあるヒゲをはやした老人の顔を思わせる岩。自然のものか?それとも人工のものか?オリャンタイタンボの村を約30分観光後、バスに乗り込む。此処にもアルマス広場が有り、オリャンタイ将軍像が。遠く谷底に白い棚田が見えてきた! マラスの塩田だ。バスのドライバーが現地添乗員に説明してやれと。アンデスの渓谷から突如流れ出す湧き水は高濃度の塩水であったことから、太古の昔、これを渓谷の斜面に作った塩田で天日干にすることで、塩の生産が始まったと。一見、山の残雪のようにも見えた。海から遠く離れたアンデスで唯一生産された貴重な塩は、インカ帝国時代、その生産を帝国が一括管理して、広大な領土に分配ししていたと伝えられているという。ここ、マラスの塩田も見学したかったがバスは一路、クスコへ向けての峠越えへ。峠に向かう途中、雪を頂いたアンデスの山々。アンデスに沈む夕日で山々が赤く光り素晴らしい景色を見せてくれた。途中、車窓からピンクのビニール袋を竹の先につけ、家の軒先から通りに向けて掲げている家が所々に。これはこの家で自家製『チチャという名のトウモロコシのドブロク』を販売しているとのしるしとのこと。昔はレタマと言うエニシダの花を先端に付けていたという。そして峠越え。私の腕時計の高度計は3800mを超えた数値を示していた。峠を越えると、クスコの美しい夜景が見えて来た。モノトーンとも言える全部同じオレンジ色がかった黄色の光は、昼間拡がる煉瓦色の瓦屋根と同じく、すばらしい光景であった。この地は派手な照明やネオンサインは禁止されているとのこと。漸くクスコ市内のホテルに到着しチェックイン。この日はトリプルルーム。ホテルの客室前の廊下には、ここならではの絵画?がいくつも飾ってあった。夕食を食べながら、早速民族衣装に身を包んだインディヘナの演奏するフォルクローレの歓迎を受けた。ここで『コンドルは飛んでいく』を聴きながら遙々この地までやってきたな~~~~との満足と感激が。おもわずI'd rather be a sparrow than a snail, Yes, I would, If I only could, I surely would . . . hmm と口ずさんでいたのであった。夕食は高地のためアルコールは禁止と!!!料理は、ペルー名物の地鶏料理とスープであったが、メインディッシュは撮り忘れ。そしてまた、明日は4:00にモーニングコール、5:30出発との添乗員の声。いよいよ今回最後の観光地、ナスカの地上絵へのクスコから片道450km以上のバス移動が始まるのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・