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2013.07.12
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カテゴリ:食品
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第758話 「七夕の料理」

 七夕の起源が中国にあり、万葉集などから考えて日本では奈良時代くらいから定着していったようですが、それ以前の日本の稲作文化に出自を求める説もあり、恐らくは、民間信仰に日本の渡来した中国王朝の儀式が加わって独自の発達を遂げて現在に至ったと考えられます。

 逆に言えば、日本の七夕の風習というのは日本オリジナルの風習になって久しく、”笹の葉さらさら ・・・”の歌ではありませんが、笹の生えていない寒冷地とは無縁の風習だったりもします。

 ある意味で、独逸の界隈でクリスマスツリーにオーナメントなどを飾り付けて御馳走を食べる風習が、日本だと七夕の頃に笹に短冊や飾り物などで飾り立て御馳走を食べる風習ということになるのかもしれませんが、冬の寒さより夏のうだるような暑さの方が昔から日本の場合は耐え難かったのかもしれません(笑)。

 七夕の頃というのは、夏野菜の収穫期でもあり、各地で夏場の農作業(田圃の草取りとか)を乗り切って秋口の稲刈りというメインイベントを向かえるための体力をつけておく時期でもあったのですが、夏バテして食が細くなる人が出てくるのは今も昔も同じ事だったようで、大豆が渡来した後、まだ大豆としては若い時期に”枝豆”として食する風習も、酷暑期の手軽なタンパク質補給と考えると分かりやすい気がしないでもありません。

 もちろん、奈良とか平安どころか、江戸時代でさえ”タンパク質”という単語も概念が無かったわけですから、経験的に夏場などに鰻を食べて”精を付ける”という表現をしているように、初物75日ではありませんが、経験的に有効性が知られていったと考えられます。

 大豆に関して言えば、若い豆の方が香りが立ち、すりつぶしやすく加工しやすいことから、枝豆として塩ゆでにして食べるだけでなく、”ずんだ餅”などのように食べやすく加工して食していたわけですが、砂糖を使ったいわゆる”御菓子”の類が、日本に置いては高齢者や病人などの精力食として発達した側面も見逃せません。

 つまり、歯が悪くなっても(或いは歯が抜けても)、胃腸が弱っていても、柔らかく少量で腹が満ちて元気が出る食べ物が”御菓子”だったということで、果物が”水菓子”と呼ばれていることからもおわかりのように、食事と菓子とは分かれていて、菓子はどちらかといえば病人食であり、同じく顎や歯が弱って堅いものを食べることや量を食べることなどが難しくなった高齢者向けの食べ物であったわけです。

 同じような理屈で、胃袋が小さく消化吸収機能が未発達な子供に菓子の類を”お八つ”として与えて小腹を満たさせるようにもなっていったわけですが、下々の餓鬼の場合、砂糖菓子の類でなくても、餅やふかした芋などでも”お八つ”とされた理由がそのあたりにあるわけです(笑)。

 それはそれとして、笹竹を飾り付けて笹飾りとした理由は、現在でも笹竹を悪霊などを祓う除霊や自らを清める儀式などに用いることがあるように、或いは、これまでに何度か取り上げたことのある6月30日の六月祓(みなづきはらえ)で、夏越の祓(なごしのはらえ)として用いるチガヤの輪のように厄除けや疫病除けの効能がある特別な植物としているあたりからも来ているようです。

 竹の皮や葉などに殺菌力があり、殺菌というか細菌という概念が無かった時代から、身近にある笹でくるむと日持ちが違うことが知られていて、香りも良いことから”笹竹”に厄除けや禊ぎなどの霊力を期待したというか、そういった力がある植物と考えられるようになっていったようです。

 また、江戸時代には、笹飾りを2本立て、その間に、その時期に取れる野菜や果物、或いは魚や団子などを(神道などの祭壇状に)供える風習のある地域もあったことから、笹を稲に見立てて豊作祈願をしていた儀式が笹飾りの起源とする説もあるわけですが、いわゆる短冊に願い事を書いて吊るすと願い事が成就するというのは、かなり後の民間信仰になるようです。

 というか、江戸時代に入って、寺子屋や手習いなどの初等教育が普及し、文字を読み書きできる子供が増えてから後に、短冊に文字を書いて吊す風習が一般化していったというのが定説で、確かに、江戸時代初期くらいまでの七夕の様子を描いた絵などの笹飾りには存在しません。

 ある意味で、次第に七夕飾りの祭壇を簡略化して笹を飾ることで良し、本来は2本必要だった笹も1本で良しとしていったのかもしれませんが、江戸時代くらいまでは七夕に七夕料理を食べる風習は残っていて、”天の川に見立てた素麺を食べる”のは定番だったようです。

 一応、七夕料理には七種の食材を用いた料理という程度の括りはあったようですが、七種の食材に関しては、茄子、胡瓜、生姜、枝豆、里芋、大根、干し鯛、あたりが知られていますが、厳密にこの七種でなければならないというものでも無かったようです。

 もちろん、というか以前に切り麦の話を散々したときにも書いたように、江戸時代の前半くらいまでは醤油や砂糖、味醂などが貴重品ということもあって、素麺を食べるときの(つけ)汁も現在のような醤油ベースの麺汁のようなものでは無く、生姜を摺り下ろして汁ごとかけて混ぜて食べたり、味噌を水などで溶いた汁に生姜を加えて食するのが一般的だったようです。

 これは、なぜ現在でも素麺は蕎麦のように山葵ではなく生姜を定番の薬味にするのか?という素朴な疑問に対する一つの解答にもなっているのですが、その程度の話なだけに、麺汁などで食す場合は別に生姜に拘る必要もなく、山葵でも良いと言えます ・・・ というか私は素麺も薬味は山葵で食べています。

 醤油が安価に出回る前は、季節の辛みのある大根などの野菜の絞り汁とか、味噌を水で溶いてかけて(というか和えて)食べたりするのが主流で、刺身の類にしても、酢や酢味噌で食べるのが定番で、醤油というのは貧乏人が日常使いするには高級な調味料で、庶民が醤油を日常的に使えるようになるのは元禄以降くらいからの話になります。

 江戸時代に千葉の野田で醤油が企業ベースで量産され安定供給されるようになると価格は下がっていって、関西の”各種の出汁+醤油”文化から、関東の”醤油+鰹節”文化が独立していくことになるのですが、これは一つには当時の海運ルートだと北海道の昆布が西回りで移動したため、関西圏で消費しつくされ、江戸まで十分な量の昆布が回らなかったためという説もあります。

 ただ、江戸の経済力と人口、参勤交代で定期的に各地の大名が参勤交代をしていたことを考えると、江戸に昆布のニーズがあれば江戸で昆布が大量消費されるようにならないわけがないのも道理というもので、江戸っ子達が上方の食文化を良しとしなかった意地と伊達の末に昆布出汁などを拒否したため鰹節+醤油が定番になったのか、紀州の辺りが鰹節の発祥地だけに、御三家の産業振興の一環として鰹節しか江戸に流入できなかったのかは興味深いところではありましょう ・・・

・・・ 近年、讃岐饂飩のチェーン店が首都圏でも店舗展開した結果として、饂飩の出汁は関西風が主流となり、かって”こんな黒くて辛いだけの汁でよく饂飩を食える!”といった具合に関西人が東京で遭遇する東西食文化の差の象徴であった饂飩の汁において、関西風が全国区でも定番になりつつありますが、なぜもっと早い時期にそういった変化が起こらなかったのか?は謎としか言いようが無いのではないかと。

 ちなみに、江戸時代の後半になって夏場の定番の御菓子となったのが葛菓子などですが、これは輸入品が主だった砂糖の国産化が軌道に乗って、それ以前よりは潤沢に出回るようになったことと無縁では無く、砂糖がある程度安価に使えるようになったことで、生姜汁や大根の絞り汁などから醤油ベースの麺汁につけ汁がシフトしていくことにもなりますし、麺汁の変化が饂飩や蕎麦の薬味の主流を胡椒から七味唐辛子などに変えることになったといった話は以前に少ししたことがあります。

 実際、味噌に関しても、比較的安価で保存に適し辛い仙台赤味噌や信州赤味噌、或いは田舎味噌などが庶民の定番の味噌とすれば、富裕層は次第に高値で保存が難しいものの(相対的に)甘い味噌へとシフトするようになり、大豆1石に対して米麹(こめこうじ)を1石2斗入れる麹の方が多いという贅沢な江戸甘味噌が知られるようになります。

 もちろん、貧乏人にとっては、”噂では聞いたことがあり、見たこともあるが、食べたことが無い高級品”に該当していたのも江戸甘味噌で、江戸の新しい自慢ではあっても自慢している長屋暮らしの町人程度では縁が無かった味噌と言えるのかもしれません(笑)。

 いずれにしても、江戸時代に既に当時の世界でも希有な百万人都市となり、超過密都市へと変貌していく過程で、次第に広い庭付き一戸建て住宅を前提にしていたような風習は、長屋や借家で暮らす貧乏人の生活では簡略化されていき、徳川幕府がナントカの改革を始める際に、武士だけでやっていればよさそうなものを、町人まで巻き込んで衣類など華美なものは駄目!としていったわけですから、食い道楽くらいしか消去法的に残らなかったのではないかと。

 では、江戸時代の夏には、七夕の素麺と並んで定番だったもので、いつの間にか食べられなくなった食品に何があるか?と言えば、”お盆”の時期(旧暦の7月13~16日)の供え物の定番でもあった蓮葉飯があり、考えてみれば、お盆の祭壇である”盆棚”にも盆花を飾り、”百味飲食”ということもあってか、茄子、胡瓜、瓜、枝豆、南瓜、里芋、無花果、梨などの野菜や果実が供えられ、キナコ団子や餡餅、素麺、饂飩なども供えられていますが、全国共通ということでは、茶碗に汲んだ水くらいになりかねません ・・・ ま、夏場だけに”水を一杯”というのは分かりやすい話ですが。

 仏教の場合の団子というのは、仏様の好物だからとか、魂魄に見立てている(からキナコ団子や餡餅)という説もありますが、意味不明といえば意味不明の風習で、単純に暑い盛りを乗り切る精力食と素直に考えた方が良いのかも知れませんし、米が渡来する以前は主食の一つだった里芋を使いたいところを時期的に難しいため団子で代用しているのかもしれません。

 素麺や饂飩に関しては、体力が落ち食が細る夏場でも喉を通りやすく保存も利く栄養食と考えられますが、御先祖から子孫まで連綿と繋がって繁栄していくようにといった駄洒落めいた説もあり、まあ、年越し蕎麦も普及していったことを考えると、美味くて滋養のあるものを食べたいという本音と、現世に帰ってきた先祖と食事を一緒にすることで供養しているという立て前もあったかなと(笑)。

 ちなみに、江戸では、13日に餡の付いた団子、14日に茄子の胡麻和え、15日には蓮葉飯を供えるのが定番で、特に蓮葉飯は15日に親戚などに贈っていたのですが、この場合の蓮葉飯というのは、おこわを蓮の葉で包んだもので、いわゆる”盆釜”などが原型になっているのではないかと考えているのですが、”盆釜って何?”といった話は次回の講釈で。

(2013/06/24)





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Last updated  2013.07.12 01:22:57
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