1コリント書2章より
1コリント書2章より
まず、1分de聖書をお読みください。(篠原利治)
おはようございます。今日はコリント人への手紙第一、2章「神の御霊」です。
目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。:コリント人への手紙第一2章9節
◆要約
さて兄弟たち。私の宣教のことばは、説得力のある知恵のことばではなく、御霊と御力の現れでした。それは、信仰が、人間の知恵ではなく、神の力にささえられるためでした。
私たちの語る神の知恵は、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは悟りませんでした。悟っていたら、主を十字架につけはしなかったでしょう。聖書に書いてあるとおりです。
「目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって啓示されたのです。神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。私たちは、この世の霊ではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵ではなく、御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」 ところが、私たちには、キリストの心があるのです。(岡崎道成)
◇解説
1コリント書2章を読んで思うこと。それは、「パウロがコリントに初めて行った時」のこと。今日は、その思いを知りましょう。
パウロは、第二次伝道旅行(使徒行伝18章)時に、失望のアテネ伝道を終えて、初めてコリントに入りました。
パウロは御霊に導かれて、トロアスからマケドニアに渡り(使徒行伝16章)、まずピリピとテサロニケでは、ある意味で順調に宣教が展開します。
しかしアテネでは(使徒行伝17章)、ギリシャ世界特有の知識に苦労し、パウロはギリシャの詩を用いて宣教します。秀才パウロも知識においては、彼らに負けませんが、彼らの心を獲得する事はできませんでした。
ボロボロのパウロは、アテネの次にコリントに入り、アクラとプリスキラ夫妻と出会います(使徒行伝18章)。これも神の配慮です。コリント伝道も予想通り、ユダヤ人の妬みから迫害され、ユダヤ会堂での宣教も頓挫。後にテテオ・ユストの家で、2年近く宣教します。
この時に救われたのが、会堂司クリスポ(1コリント書1:14)とソステネ(1コリント書1:1)。彼らの名前が、1コリント書の初めに登場しますね。実は彼らこそ息の長い、ホントの同労者です。パウロを失望させず、最後まで支えた人物です。
兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。(1コリント書2:1〜3)
第二次伝道旅行(AD49〜52)で、コリントに初めて行ったのは、AD51。1コリント書を書き送ったのは、第三次伝道旅行(AD53〜58)時のエペソ伝道、AD55。第三次(だいさんじ)伝道旅行は、このエペソで後に、アルテミス神殿の大騒動(使徒行伝19章)に巻き込まれ、まさに大惨事(だいさんじ)。
このような状況の中でも、パウロはコリント教会の問題を思いつつ、この手紙を書きました。苦難の中の導き、これこそ聖霊による宣教です。いい事ばかりを求める、御利益信仰ではありません。
さあ私たちも、神の啓示なる御言葉(旧新約聖書)を毎日丁寧に学んで、神の奥義としての啓示「御霊の知恵」に生きましょう。これこそパウロが、コリント教会のメンバーに伝えたい事です。これこそ神が、私たちに伝えたい事です。
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。(1コリント書2:6〜7)
(篠原利治)