45.人間魚雷回天(5) まさに戦争末期の断末魔の軍隊の姿であった
(ウツボ)大津島の整備長の浜口大尉は兵から特進した士官だが、水雷学校普通科練習生、高等科練習生をともに恩賜で卒業している優秀な人物だった。特に酸素魚雷のエキスパートだった。(カモメ)もう一人、回天を作った側の証言があります。昭和31年に発行された「特集人物往来・日本戦史の告白」(人物往来社)の中で「死の秘密兵器の正体」と題して、元回天整備員の川本友一という人が、寄稿していますね。(ウツボ)俺も読みました。回天の試作機から完成までのいきさつを暴露しているんだね。(カモメ)そうですね。川本氏によると、昭和19年8月に呉の工場に直径が1メートル長さ8メートルくらいの円筒が入ってきた。その筒の前後に日本が世界に誇る九三式魚雷を装着したんですね。(ウツボ)それが人間魚雷の原型となった訳だ。 (カモメ)ええ。それで、川本氏が勤務していた、広島県の大入用地魚雷調製工場に昭和19年5月頃、黒木という士官が度々訪れ出した。(ウツボ)人間魚雷回天を発案した黒木博司大尉だね。(カモメ)そうなんです。その黒木大尉について、川本氏は次のように記しているんです。「黒木という本官の大尉が度々訪れ出した。日露戦争の軍司令官、黒木陸軍大将の御曹司だというので、私達の間に人気が湧いた。ひどく秀才で、新兵器考案のため、艦政本部と魚雷場を、往復していることがわかった」と。(ウツボ)これについて、俺も調べてみたのだが、川本氏の言う黒木陸軍大将が、日露戦争の第一軍司令官・黒木為禎大将だとすると、黒木大尉が「黒木陸軍大将の御曹司」というのは少し信じ難いのだがね。(カモメ)そうですね。日露戦争の黒木大将は天保15年(1844年)の生まれで、大正12年に68歳で死去していますから。<ウツボ)黒木博司大尉(殉職後少佐・海軍機関学校51期)は大正10年9月11日岐阜県益田郡川西村に生まれているので黒木大将が死去する2年前、66歳の時の子供となる。(カモメ)いくらなんでも、それはね。もし黒木大将の子孫であるなら曾孫位ですね。それに黒木大尉の父親は医者ですしね。(ウツボ)そうだよ。そこのところだが、「回天特攻」(光人社)の著者小島密光造氏は海軍兵学校出身で黒木大尉とは交流があった人だ。児島氏によると、黒木大尉の父親は医者で教育者でもあり、吉田松陰の教えを守り、毎年吉田松陰をお祭りするのを行事としていた、と述べている。(カモメ)ところで、黒木大尉は皇国史観の提唱者で東京帝国大学教授平泉澄博士の門下生だったですね。また佐久間艇長を尊敬していたと言われています。(ウツボ)佐久間艇長というのは明治43年4月15日、山口県の岩国沖(新湊沖)で訓練中沈没した第六号潜水艇の、佐久間勉艇長のことだね。(カモメ)そうですね。死ぬまで乗組員14人とともに整然として職務を全うした。佐久間艇長は死ぬまでメモをとり、潜水艇の事故原因、改良点、遺書などを書き残しています。(ウツボ)黒木大尉も回天の事故で殉職した時、同じ様に、回天の事故原因や改良点について書き残した。(カモメ)「ああ人間魚雷回天」(両文堂)の著者、武田五郎氏はまえがきで「私が所属した回天隊は特攻隊ということもあったが、まさに戦争末期の断末魔の軍隊の姿であった」と記しています。<ウツボ)戦争末期の断末魔の軍隊の姿、武田氏の本を読んでみると確かにそういうものが浮かび上がってくる。(カモメ)昭和19年9月6日、黒木、樋口両大尉が訓練中に殉職しましたが、その葬儀の後、指揮官である板倉光馬少佐は回天搭乗員全員を士官室に集めて重大な発表をしました。(ウツボ)それを聞いて回天搭乗員全員、衝撃を受けた。