96.永田軍務局長斬殺(6) 閑院宮参謀総長は「教育総監は事務の進行を妨害するのか」と言った
(カモメ)昭和9年3月の定期異動で林陸相は永田鉄山少将(統制派)を陸軍省軍務局長に抜擢しました。同時に永田と同期で喧嘩相手の小畑少将(皇道派)を陸軍大学校幹事に補しました。(ウツボ)山岡少将(皇道派)は軍務局長から整備局長に横滑りさせた。また、永田問題で悪評を買った東条英機少将を陸軍士官学校幹事に転出させた。(カモメ)そうですね。東條は着任すると、士官学校の改革に乗り出しました。ですが士官学校の教官、職員はほとんど無天(陸大卒ではない)だったので、皇道派に近かった訳です。(ウツボ)そこで、士官学校には反東條の空気が醸成し、それが真崎教育総監の耳に入り、在職五ヶ月、9月8日の異動でr久留米歩兵第二十四旅団長に飛ばされてしまったんだ。(カモメ)赴任の前、永田は「しばらく地方に行って、風当たりの強いのを冷やして来い。もう少し時間を待て」と東條少将に言ったと記されています。(ウツボ)久留米は東條にとって失意の土地であったが、昭和10年8月の永田軍務局長惨殺事件後、その才幹を知る川島陸相に拾われ、従来無縁だった関東軍憲兵隊司令官に転出した。(カモメ)東京に呼ぶと永田の二の舞になると思ってひとまず満州に送ったのですね。(ウツボ)そうらしいね。永田軍務局長の就任は永田少将を筆頭とする統制派の陸軍制覇を志す第一歩であったんだ。昭和9年8月1日の異動で、永田少将は林陸相に進言し、陸軍将官の大人事異動を行った。(カモメ)その結果昭和10年には皇道派で要路の課長以上に止まるものは教育総監・真崎大将、整備局長・山岡重厚中将、作戦課長・鈴木率道大佐等、二、三の者に過ぎない状態になりました。(ウツボ)林大将はよく部下の意見を容認する「オオ、オオ居士」であるとともに、優柔不断のところもあって、幕僚たちにとっては好都合な陸軍大臣だった。永田軍務局長の献策がことごとく実行された。(カモメ)皇道派のみならず、中立派の幕僚も「ロボット陸相」と呼んで蔑視し、永田少将の試作を「幕僚ファッショ」と罵るようになりました。(カモメ)「軍務局長斬殺」(図書出版社)によると、昭和9年11月21日、陸軍士官学校生徒隊第一中隊長・辻政信大尉による「十一月事件」(陸軍士官学校事件」が起きました。(ウツボ)統制派の辻大尉が士官学校候補生、佐藤勝郎をスパイに使って、陸軍大学校学生の村中孝次大尉、近衛歩兵第四連隊の磯部浅一二等主計に接近させ、彼らを中心としたクーデター計画を聞き出した。(カモメ)佐藤候補生から報告を受けた辻大尉は、11月20日、塚本誠憲兵大尉と一緒に軍務局の統制派の片倉衷少佐に知らせましたね。片倉少佐は二人とともに橋本虎之助陸軍次官を訪れ報告した。翌日東京憲兵隊が村中、磯部を首謀者として逮捕したという流れです。(ウツボ)ここのところは「或る情報将校の記録」(中央公論事業出版)によると、著者の元憲兵大佐・塚本誠氏によると、そもそも塚本誠憲兵大尉(当時)が辻大尉の自宅を訪ねたのは昭和9年11月11日だった。(カモメ)それは塚本憲兵大尉の士官学校の同期生某が内縁の妻と正式に結婚するため、塚本憲兵大尉が同期生のために辻大尉の援助を求めるために訪ねたのですね。(ウツボ)そうだね。当時将校の結婚は師団長またはそれに準じる所属長の許可を必要とした。その関係上司の了解を取るために、辻大尉に援助を頼んだんだ。(カモメ)辻大尉は塚本憲兵大尉の依頼を快諾しましたね。そのあと辻大尉は「いい時に来てくれた。これは極秘だが」と切り出して、「村中、磯部のところに、士官学校の生徒が出入りしている。村中、磯部はクーデター計画を持っている可能性がある。これを片倉少佐だけには話してある」と話をしました。(ウツボ)それで塚本憲兵大尉は参謀本部第四課国内班長、片倉衷少佐を訪ねてクーデター計画の存在を確認したということだ。(カモメ)けれども塚本憲兵大尉が憲兵隊の上司に報告したとき、持永憲兵東京隊長が「こんなことは、いつものことです」と、すぐに手を打とうとしなかった訳です。(ウツボ)そこで塚本憲兵大尉は辻大尉のところに行き、一緒に片倉少佐のところに走った。そして三人で橋本虎之助陸軍次官を訪れ報告したと記されている。(カモメ)一方逮捕された村中、磯部は「辻は佐藤候補生をスパイに仕立てて、自分らの考えを聞きださせ、これをいかにもクーデターのごとく、でっちあげた。これを辻に示唆したのは辻の上司である陸軍士官学校の幹事である東条英機であり、これを企画したのは永田軍務局長である」と弾劾し、辻と片倉を誣告罪で訴えました。(ウツボ)しかし永田軍務局長は厳罰主義をとった。この種の事件の続発を防ぐため、厳しい処分を行なったんだ。村中、磯部は謹慎処分となった。(カモメ)このことにより、永田軍務局長はすべての皇道派将校のうらみを買うことになった訳です。当時相澤中佐は福山歩兵第四十一連隊の隊付でしたね。(ウツボ)そうだね。この十一月事件で相澤中佐のの永田軍務局長に対する公憤はいよいよ昂じた。五・一五事件直後に会った政策班長・池田純久中佐の言質も全く虚構であったと判断したんだ。(カモメ)池田の言ったことはすべて嘘ではないかと。(ウツボ)それはね、やはり相澤中佐の個人的判断もあるけど、シンパの皇道派青年将校たちも怒ったんだね。結局、村中、磯部は免官となったんだからね。(カモメ)相澤中佐のもう一つの憤激は、真崎大将が教育総監を罷免されたことですね。(ウツボ)「龍虎の争い」(紀尾井書房)によと、真崎排撃の空気は昭和9年3月の異動後生じたが、具体的運動となったのは十一月事件の頃からとある。(カモメ)そうですね。さらに宮中、重臣、内閣においても、真崎は天皇機関説について訓辞を出したり、内閣の施策を批判したり妨害して困る、なんとか辞めさせてもらいたいとの声が聞こえ始めた訳ですね。(ウツボ)そこで林陸相は閑院宮参謀総長と協議の上、昭和10年7月初め、真崎大将の軍事参議官転補を含む8月の定期異動の原案を作成しこれを真崎に内示した。(カモメ)ところが真崎は自分を含む二、三の将官の人事に反対し、逆に二、三の将官を追放すべきと主張しました。(ウツボ)昭和10年7月12日、閑院宮参謀総長と林陸相、真崎教育総監の三長官会議が開かれた。だが、甲論乙論相譲らず、なんら決定を見ることなく解散した。(カモメ)7月15日、二回目の会議が開かれました。真崎は粛軍の本質を説き、その完成は三月、十月事件の適切なる処断なくしては絶対にあり得ないと結論しました。(ウツボ)だが、これに対して閑院宮参謀総長は「教育総監は事務の進行を妨害するのか」と言った。そして最後に「今回は陸相案で行こう」と談を下した。皇族である閑院宮の仰せに真崎は論議を中断した。(カモメ)結局、7月16日、皇道派の真崎大将は教育総監を罷免され軍事参議官となり、統制派の渡辺錠太郎大将(八期)が教育総監のあとを継ぎました。