410.海軍駐在武官(10)アメリカでは二代のルーズベルトは共に海軍ファンだった
(カモメ)「つまり軍需工業に関係したり、また第三国の通運を大きく取り扱ったので、飛躍的な発展をしていたのである。今日でいうドルをじゃんじゃん稼いでいたようだ」(ウツボ)「私の駐米中は、日本の政治経済的な国際進出の大飛躍点であったことを回顧して、感慨無量なものがある」(カモメ)「第二次大戦中の大統領フランクリン・ルーズベルトは、当時海軍次官をしていたので、しばしば往来をして友好を結んだ」(ウツボ)「日露戦争のときのセオドル・ルーズベルトも大の海軍好きだったが、ランクリン・ルーズベルトも非常な海軍男で、海軍の話を始めると時のたつのを忘れるほどだった」(カモメ)「日本で伊藤公(伊藤博文)が海軍ファンだったが、アメリカでは二代のルーズベルトは共に海軍ファンだった」(ウツボ)「余談だが、現在(昭和三十五年七月)、大統領候補を狙う共和党の副大統領や民主党のケネディ氏も第二次大戦中は海軍の将校であり、ことにケネディ氏は小艦艇の艇長として日本軍艦と戦闘を交え撃沈された経験者である」。(カモメ)以上が野村吉三郎のアメリカでの駐在武官当時の回想ですね。当時野村大佐は多忙な第一次大戦中にワシントンで勤務したので、自動車をよく利用しましたね。(ウツボ)そうだね。ドライブが好きになり、ニュージャージー州ニューアーク郊外オレンジに住む、発明王エジソンを訪問したこともある。その時のことを野村は次のように述べている。(カモメ)読んでみます。「その住宅兼研究所はまことに簡素なもので、これが人類に幾多の貢献をもたらした発明王の老後を養う場所とは、考えられないほどであった」。(ウツボ)このほか、駐米中に野村大佐はウィリアム・プラット提督(海軍兵学校卒・合衆国艦隊司令長官・海軍大将・米国海軍作戦部長)などとも親交を結んだ。この武官時代に得た知識は後に大いに役立つことになる。(カモメ)前述のように、大正六年四月六日、アメリカは第一次世界大戦に参戦しましたが、野村大佐は、大正七年六月一日、帰国命令を受け、海防艦「八雲」の艦長に補されました。四十一歳でした。【米内光政海軍大将】(ウツボ)次は、米内光政(よない・みつまさ)海軍大将だね。米内光政海軍大将は、明治十三年三月二日岩手県盛岡市生まれ。海軍兵学校卒(二九期)。卒業成績は百二十五人中六十八番だった。(カモメ)明治四十五年十二月海軍少佐。大正三年五月海軍大学校卒業(一二期)。大正四年二月ロシア国駐在武官補佐官。大正五年十二月海軍中佐。大正六年四月ロシア駐在を免じられ帰国、五月佐世保鎮守府参謀兼望楼監督官。大正七年浦塩派遣軍司令部付。(ウツボ)大正八年九月「富士」副長兼海軍大学校教官。大正九年六月ベルリン駐在。十二月海軍大佐(四十歳)。大正十年十一月ポーランド駐在員監督。大正十一年末帰国。大正十三年戦艦「扶桑」、「陸奥」艦長。大正十四年十二月海軍少将。(カモメ)昭和三年第一遣外艦隊司令官。昭和五年十二月海軍中将。昭和七年十二月第三艦隊司令長官。昭和八年十一月佐世保鎮守府司令長官。昭和九年十一月第二艦隊司令長官。昭和十年十二月横須賀鎮守府司令長官。(ウツボ)昭和十一年連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。昭和十二年二月海軍大臣。四月海軍大将。昭和十四年九月軍事参議官。昭和十五年一月内閣総理大臣。七月総理大臣辞職。昭和十九年七月二十二日小磯内閣海軍大臣(副総理格・小磯・米内連立内閣)。(カモメ)昭和二十年四月鈴木貫太郎内閣海軍大臣。八月東久邇宮稔彦王内閣海軍大臣、十月幣原喜重郎内閣海軍大臣。昭和二十三年四月二十日、脳溢血で肺炎を併発して死去。六十八歳でした。(ウツボ)「激流の孤舟」(豊田穣・講談社)によると、米内光政が海軍少佐当時の家は、父受政の借財で苦しんでいるところへ、子供が三人も生まれ、母の、とみが同居していた。(カモメ)また、ときには、姉のヒサ子も名久井政太郎と共に同居するという有様で、当時、米内家は赤貧洗うが如しだったのですね。妻のこま子が如何にやりくっても、赤字が増えるばかりだったのです。