723.海軍撃墜王列伝(63)「特攻を希望しない者は、一歩前に出ろ」と告げた
(カモメ)昭和十九年二月五日、宮崎勇一等飛行兵曹の所属する第二五二航空隊は<三菱・G4M・一式陸上攻撃機・双発>に分乗して、マロエラップを脱出、二月中旬に内地に帰還して、第二五二航空隊の再建に従事しました。(ウツボ)昭和十九年六月、マリアナ諸島にアメリカ機動部隊が来襲、「あ号作戦」が発令された。(カモメ)第二五二部隊は、横須賀航空隊とともに「八幡部隊」に参加しました。六月二十五日、宮崎勇一等航空兵曹は、硫黄島に進出しました。(ウツボ)だが、数度にわたるアメリカ機動部隊の艦載機の攻撃で、「八幡部隊」は壊滅、第二五二航空隊は再び内地に帰還し、再建を行った。(カモメ)昭和十九年十月十日、アメリカ機動部隊による沖縄攻撃が行われました。これに対して、第二五二航空隊は、沖縄県那覇市の飛行場、次に台湾の台中飛行場に進出したのですね。(ウツボ)そうだね。さらに十月十日、第二五二航空隊は、フィリピンのマバラカットに進出した。十月二十四日、ルソン島(フィリピン諸島最大の島)東海上のアメリカ機動部隊への攻撃に参加した。(カモメ)十月二十四日夜、第二五二航空隊飛行長・新郷英城(しんごう・ひでき)少佐(佐賀・海兵五九期・第二五期飛行学生・館山航空隊附・中尉・空母「龍驤」乗組・横須賀航空隊教官・大分航空隊分隊長・<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>操縦員・空母「加賀」乗組・大尉・鹿屋航空隊分隊長・佐伯航空隊分隊長・第一四航空隊分隊長・負傷・霞ケ浦航空隊分隊長兼教官・岩国航空隊分隊長兼教官・大分航空隊分隊長兼教官・高雄飛行隊長・台南航空隊飛行隊長・第六航空隊飛行隊長・元山航空隊飛行隊長・空母「翔鶴」飛行隊長・少佐・築城航空隊飛行隊長・第三三一航空隊飛行隊長・第二〇二航空隊戦闘六〇三飛行隊長・第三四一航空隊戦闘七〇一飛行隊長・第二五二航空隊飛行長・兼戦闘三〇四飛行隊長・終戦・中佐・北海道庁警察部・警部補・農協主事・航空自衛隊入隊・二等空佐・一等空佐・空将補・第二航空団司令・航空総隊司令部幕僚長・航空幕僚監部監察官・北部航空方面隊司令官・空将・航空自衛隊幹部学校長・勲三等瑞宝章・昭和五十七年十一月二十七日死去・享年七十一歳・従四位)から集合がかけられたのです。(ウツボ)第二五二航空隊飛行長・新郷英城少佐は、特別攻撃について説明をした後、「特攻を希望しない者は、一歩前に出ろ」と告げた。(カモメ)誰も前に出る者はなく、第二五二航空隊の戦闘機搭乗員全員は、そのまま特攻配置となったのです。(ウツボ)昭和十九年十一月一日、宮崎勇一等飛行兵曹は、飛行兵曹長に進級した。二十六歳だった。(カモメ)十一月、第二五二航空隊の宮崎勇飛行兵曹長と岩本徹三少尉(終戦時中尉・撃墜数二〇二機)、斎藤三郎飛行兵曹長(終戦時少尉・撃墜数一八機)に対して、飛行機受領の為、内地帰還命令が出ました。(ウツボ)昭和十九年十二月、宮崎勇飛行兵曹長は第三四三航空隊(剣部隊)戦闘三〇一飛行隊(新選組)に配属された。(カモメ)宮崎勇飛行兵曹長は、三〇一飛行隊の「新選組」という隊名に、気概を持ち、「我こそは近藤勇なり」と言っていたそうです。(ウツボ)昭和二十年三月十九日、広島県呉市に来襲したアメリカ機動部隊艦載機の邀撃が、第三四三航空隊(剣部隊)の初陣となった。(カモメ)だが、宮崎勇飛行兵曹長は出撃第二陣の配置であったため、会敵の機会がなかったのです。(ウツボ)その後、第三四三航空隊(剣部隊)は、鹿屋、国分、大村と移動し、沖縄作戦、本土防空戦闘任務に従事して、終戦を迎えた。九月五日、少尉進級。(カモメ)宮崎勇少尉の撃墜数は、単独・協同合わせて一二〇~一三〇機とも言われていますが、複数の資料により、一三機としました。【黒岩利雄(くろいわ・としお)飛行兵曹長■戦死・13機】(ウツボ)黒岩利雄は、明治四十一年十二月二十五日生まれ。福岡県出身。大正十五年佐世保海兵団に入隊。昭和三年、第一三期操縦練習生修了、戦闘機操縦員となる。(カモメ)昭和七年一月二十八日、第一次上海事変が勃発、黒岩利雄三等航空兵曹が乗組みの、空母「加賀」(三三六九三トン)は上海沖に出動しました。