149.ルンガ沖夜戦(9) ハルゼー提督は、この海戦の結果を聞いて開いた口が塞がらなかった
(ウツボ)江田中尉は、ショートランドで酒保から買ってきたサントリーウイスキーの封を切って、左の手に受け取ると、それで小倉艦長のやや薄くなった頭を濡らしてあげた。小倉艦長は酒が好きだった。(カモメ)江田中尉が三番砲塔に来て見ると、手や足の不自由な砲員たちが取り付いている。弾の込めてある左砲の旋回と仰角を、それでもなんとかしようと、あくまでも試みていたのです。(ウツボ)傍らに立っていた江間砲術長が「弾火薬庫の注水も終わっているので、もうやめろというのに、きかないのです」と目をこすっている。江田中尉は、彼らは砲身が焼けるまで撃ちたかったにちがいないと思った。(カモメ)田中少将は駆逐艦「親潮」と「黒潮」に、大破している「高波」の救援命令を出しました。命令を受けて、2隻は救援に向かいました。(ウツボ)だが「高波」に接近し、横付け状態にして、いざ救援活動に入ろうとしたとき、敵艦隊が接近してきたので、2隻は、やむなく救援を中止して「高波」を離れて去って行った。(カモメ)そうですね。そこで「高波」は乗組員によって、海水弁が開かれ、自沈の処置がとられました。(ウツボ)だが、総員退艦中に、敵の魚雷が命中した。清水第三十一駆逐隊司令、小倉艦長ともに戦死。「高波」は戦死71名、行方不明139名。生存者准士官以上4名、下士官兵29名だった。(カモメ)昭和17年11月30日午後11時50分、30分間の海戦、「ルンガ沖夜戦」は終わりました。「高波」を除く7隻の駆逐艦は9時間後、ショートランドに帰還しました。(ウツボ)アメリカ海軍のハルゼー提督は、この海戦の結果を聞いて開いた口が塞がらなかったと言われている。また、この海戦に参加した米軍の駆逐艦の乗組員は「癪に障るほど、うまくやりやがった」と口を揃えて日本艦隊を賞賛したという。(カモメ)夜戦に勝利した第二水雷戦隊でしたが、日本海軍では、必ずしも彼らに対して賞賛の声ばかりではなかったのですね。結果的にガダルカナル島への補給任務は失敗した訳ですから。(ウツボ)つまり、敵艦の一隻や二隻沈めるより、飢えている陸軍のいるガダルカナル島に食糧の入っているドラム缶を届けるべきであったという厳しい批判が出た。(カモメ)だけど、「ルンガ沖夜戦」の勝利は12月3日に国民に発表され、山本五十六連合艦隊司令長官は、第二水雷戦隊に対して感状を授与しました。(ウツボ)実は、11月30日の「ルンガ沖夜戦」後も、第二水雷戦隊は休む間もなく、ガダルカナル島への輸送を続けた。第二次ドラム缶輸送が12月3日、第三次ドラム缶輸送が12月7日、第四次ドラム缶輸送が12月11日と行われた。(カモメ)どの艦もどの乗組員も歴戦難戦で疲れきっていました。田中司令官も艦橋で沈痛に考え込むことが多くなり、やがてポツリと独り言をもらしました。「これ以上この無謀な作戦を続けるのは許されない」。(ウツボ)結果的に、12月下旬、田中少将は第二水雷戦隊司令官の職を解かれ、軍令部出仕となった。当時は左遷と噂された。(カモメ)上司にガダルカナル島輸送に反対の直言をしたのが原因とされました。後任は小柳富次少将が着任しました。(ウツボ)田中少将に対して、その功績を讃える者もいたが、戦闘中、旗艦を真ん中に位置して指揮をとる中途半端な司令官として批判する者もいた。(カモメ)だけど、大本営は、田中少将の解任と時を同じくして、会議と図上演習を重ねた結果、ガダルカナル島放棄を決定しましたね。(ウツボ)そうだね。大本営では一部にガダルカナル島放棄反対があって、喧々諤々の議論をしたが、最終的に東條首相が決断した。次に山本五十六連合艦隊司令長官の決済で、昭和18年2月1日、2月4日、2月7日の3回、駆逐艦によりガダルカナル島の兵士を撤退輸送させた。(カモメ)「秘史・太平洋戦争の指揮官たち」(新人物往来社)によると、田中少将はその後、昭和18年2月、舞鶴海兵団長、同年10月にラングーンの第十三根拠地隊司令官に補任され、再び水雷戦隊を指揮することはありませんでしたね。(ウツボ)そうだね。田中少将は昭和19年10月に海軍中将に昇任したが、艦隊司令官には任命されなかった。(カモメ)第一回目の対談で、戦史家の香取史郎氏が「完勝・ルンガ沖夜戦」と題して寄稿している文中で、田中中将が「ルンガ沖夜戦以後、僕にはすることがなかったといっていい」と話していますが、このことでしょうか。(ウツボ)そうだね。「なにもすることがなかった」とは、ルンガ沖夜戦以後、彼は水雷屋としての職を閉ざされたことを言っているのだね。(カモメ)彼は水雷屋のたたき上げで、水雷一筋の道を歩んできた軍人でしたから、悔しかったのでしょうね。(ウツボ)そう思いますね。