テーマ:意外な戦記を語る(748)
カテゴリ:帝国陸軍と陸上自衛隊
(ウツボ)増原次長から「君の意見を聞きたい」と言われたので、海原保安課長は「あの米陸軍式の敬礼は評判が良くないようですね」と一応答えてみた。
(カモメ)とたんに、陸の幕僚長は、きっとなり、「海原君、そんなことはないよ。あの礼式は、いたって好評だ。初めのうちは、いろいろと言われていたが、今ではすっかり馴れて、これが良いというのが、皆の意見だ。大体、日本人が上体を傾ける敬礼は、頭を下げて腰をかがめるので、卑屈な格好となる。室内でも挙手の礼をする方が、姿勢が好くて、良い」と語気鋭く叱ったのです。 (ウツボ)海原保安課長は「しかし、陸の諸君は、腰をかがめたうえで、手を上げていますよ。シャキッとした態度にはなっていません」と抗弁したが、全く受け付けられなかった。 (カモメ)陸の幕僚長は意見が調整できないなら、従来通り陸海別々の礼式でゆこうと言い出しました。だが、海原保安課長は「それはいけない」と反対しました。 (ウツボ)「もしそうしたら、いろいろ困る場合が考えられます。保安大学校(後の防衛大学校)で、学生が教官室に入る時に、同じ階級の陸と海の教官が座っていたら、どういう敬礼をしたらいいのでしょうか?」と海原保安課長は尋ねてみた。 (カモメ)すると陸の幕僚長は次のように答えたのです。「それでは、陸の方式に統一してもらおう。保安隊は十一万人で、警備隊は一万人だ。多いほうの礼式でゆくべきだ」。 (ウツボ)海原保安課長は「数で決めるのはおかしいでしょう。陸式とか海式とかいわずに、文部省にでも問い合わせて、日本人の礼式として何がよいかをきいて、保安庁の礼式を決めたらいいのではないでしょうか」と反論した。 (カモメ)すると増原次長は「よし、そうしよう」と海原保安課長の案に決断を下しました。一般の礼式はいわゆる海式だったのです。 (ウツボ)このことからわかるが、内局の海原保安課長は、制服組のトップたる陸幕長をも押さえ込む、かなり強硬な防衛官僚だった。 (カモメ)海原治保安課長は、その後、防衛庁発足後も、防衛課長、防衛審議官、防衛局長、官房長として、巨大化した防衛庁の中枢を高級防衛官僚として進み、制服組を完全に押さえ込みましたね。 (ウツボ)そうだね、例えはあまりよくないが、当時、「防衛庁の天皇」と呼ばれていた。だが、敵も多かったので、最後には事務次官にはならずに、国防会議事務局長に転出させられた。 (カモメ)もう一人の「防衛庁の天皇」の話に移りましょうか。「女子の本懐」(小池百合子・文藝春秋)によると、平成十九年七月四日、小池百合子氏は防衛省に昇格して初代の久間章生氏に続く二代目の防衛大臣に就任しました。 (ウツボ)そうだね。我が国初の女性防衛大臣として注目を集めた。小池大臣は、着任すると防衛省の人事案を主体的に進めた。 (カモメ)それは、次官就任以来五年目に入った守屋武昌(もりや・たけまさ・東北大学法学部卒)事務次官を退任させ、警察庁出身の西川徹矢官房長を後任にする案だった。 (ウツボ)守屋武昌事務次官は、防衛庁の中枢を歩み、次第に頭角を現し、まさに「防衛庁の天皇」として防衛庁の人事を掌握し実質的に支配した。事務次官就任後は事務次官の就任期間は一~二年という慣例を破り、五年も長くその職に就いたままだった。 (カモメ)八月六日、小池大臣は水面下に進めてきた人事案がマスコミに漏れているという情報を耳にして、守屋次官の携帯に電話しました。だが、待てど、暮らせど、返事はなかったのです。 (ウツボ)八月七日、毎日新聞の三面に「防衛省、守屋次官退任へ、後任は西川官房長」というメガトン級の記事が掲載された。 (カモメ)小池大臣は閣議を終え、防衛省に戻り、守屋次官を呼びました。いかにも不満そうな表情で現れた守屋次官に小池大臣は、次官退任を言い渡したのです。 (ウツボ)ところが、守屋次官は「断じて困る」と言って、大いに反発をした。事務次官人事をめぐり、防衛省内はマグニチュード10の地震が襲ったような大騒ぎとなった。 (カモメ)このあと、池田大臣と守屋次官は人事をめぐる死闘を行い、最終的に守屋次官は退任、小池大臣も辞めることになりましたね。 (ウツボ)なお、守屋次官は退任後、平成十九年十一月、山田洋行事件での収賄容疑で妻とともに逮捕された。 (カモメ)防衛庁への山田洋行から装備品納入で、守屋次官が便宜供与を図った見返りにゴルフ接待を受けたというものですね。 (ウツボ)そうだね。さて、「自衛隊を裸にする」(瀬間喬・ことば社)という本がある。著者の瀬間喬氏は海軍経理学校卒の元海軍主計中佐だが、戦後陸上自衛隊に入隊した。需品学校長や西部方面総監部補給課長を務めた。 (カモメ)その後、瀬間氏は、海上自衛隊に転官し海幕厚生課長大阪基地隊司令(海将補)を歴任しましたね。 (ウツボ)この人は奥さんに「私が死んだら海軍のときの軍服(中佐)を棺の中に入れてくれ」と言っている。「海将補の制服を入れてくれという気持ちが起きぬところに私の悲しみと自衛隊の悲しみがある」とも述べている。 (カモメ)「自衛隊を裸にする」によると、「現実には歴代長官がなんと言おうと、背広が制服に君臨するようにできあがってしまっている」と述べています。 (ウツボ)瀬間氏によると、昭和四十五年十一月十三日の毎日新聞紙上に「成人式、衣替えした自衛隊」という見出しで次の様な記事が出ていた。 (カモメ)読んでみます。「陸上自衛隊の広報、総務など、“国民との接触の深い”ポストの幹部自衛官を教育している東京、小平の業務学校。『ボクらの上官が肩に四ツ星(陸海空の幕僚長または統幕議長・大将にあたる)をきらめかせながら大学出の若い内局の部員にペコペコしているのを見るとハラが立つ』との声が圧倒的」。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.07.27 13:09:23
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