宇治の大君@総角の巻
やっと総角が終わった。始めたのが2019年6月だから、2年3か月もかかったことになる。やれやれである。もともと希死念慮の強い宇治の大君が好きでなかったことも遅筆の一因ではあるが、いつしか大君の気持ちに寄り添えるようになったのは、訳者としての役得だと思う。私は本を読む時、自分の感覚とぴったり合う文章を探すことがある。それは瓶に蓋をするときの感覚に似ていて、なかなかうまく嵌らないこともあるが、カシッときれいにはまる時は、すとんと腑に落ちる気持ちのいい感覚に陥る。そしてそこから本の中に入っていくのだ。さて、宇治の大君は男についてこう思っている。「ほのかに人のいふを聞けば、男といふものは 空言をこそ いとよくすなれ。思はぬ人を思ひ顔にとりなす言の葉 多かるものなり」(人の話によると、男という者は心にもないことを平気で言い、好きでもない女をあたかも好きであるかのように言葉巧みに誘うものだとか) あるいは、「この人(薫)のおんさま、なのめにうち紛れたるほどならば、かく見慣れぬる年ごろのしるしに うちゆるぶ心もありぬべきを。恥ずかしげに見えにくき気色も なかなかいみじくつつましきに 我が世は かくて過ぐし果ててむ」 つまり中納言とは長年の付き合いがあって嫌いではないけれど、あまり気取っていて気が引けて、とても夫婦にはなれない、というわけだ。 恋愛経験のない彼女にとって、異性は父・八の宮と中納言、匂宮しか知らない(この場合の「知る」とは、実事を意味してはいない)。しかしなかなか的確な人物評価をしている賢い女性であることが分かる。 中納言は自分の気を引こうとしているし、中君を頼みたい匂宮は夕霧の六番目の姫と縁組が決まったと聞く。今は気を引こうと懸命な中納言も、私の容色が衰えたら、いずれは私以外の女に気が移るに違いない、「我だに さるもの思ひに沈まず、罪などいと深からぬさきに いかで亡くなりん」(そんな愛憎執着の罪にとらわれる前に、何とかして死んでしまいたい)と、いかにも哀しい事を言っている。男性不信と結婚に対する絶望感しか持ち得なくなった大君は、こうして生きる希望を失っていく。父・八の宮からの諫めを守れなかったのだから、姉としての立場もない。 哀しいことに政権争いに敗れた没落貴族の娘たちは、男からの経済的な保護なくしては生きていけないのだ。そこに平安時代の女の無残さ哀れさがあるのだが、それは現代の経済弱者であるシングルマザーにも言えることではなかろうか。時代は進んでいても変わらない女の哀しさ、みじめさがあるのはどうしたことだろう。 ところで薫という男を思う時、「すべてを所有してる時に社会を否定するのは、最上の贅沢である。(ロマン・ロラン著ジャン・クリストフ)」との文言が頭に浮かぶ。貴族階級という身分に生まれ、経済的にも保証されているのに厭離穢土を願い、一方で大君に執着する己の心理的矛盾を矛盾と感じないところに、いかにも俗っぽい似非宗教者であることを感じてしまうのだが、人間は所詮そんなものなのかもしれない。 源氏物語は女が女であることのために受ける理不尽な扱いを嘆くお話であり、女と男は決して理解し合えない悲しい関係であることを描いているのだが、研究者はともかく、読書家の男性がこの物語に惹かれるのはどういう動機からなのか、どんな気持ちで読んでいるのか私にはどうも理解できない。自分はここに出てくる男たちとは違うと思っているから平気で読めるのだろうか。