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2023年04月15日
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カテゴリ:音楽 [邦楽]
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

​邦楽特集​
追悼 高橋幸宏/坂本龍一
高橋幸宏と
坂本龍一の
音楽
をどうぞ・・・​​


70年~90年代を中心に、子供の頃、若かりし頃、
耳にして来た音楽をご紹介する
邦楽特集『~どうぞ』シリーズ 今回は・・・

20世紀を代表するアーティストの訃報が続きます


YMOのメンバーとして知られるアーティスト高橋幸宏氏が
1月11日誤嚥性肺炎で亡くなりました。70歳でした。

そして後を追う様に坂本龍一氏が
3月28日直腸がんで亡くなりました。71歳でした。

高橋幸宏氏は2020年に脳腫瘍の手術を受けて以降
復帰に向けてのリハビリを続けて

Twitterでは 状態は好転しているという旨のコメントを残していた所の
突然の悲報でした

坂本龍一氏は2014年に中咽頭がん治療が寛解した後
2020年に直腸がんと診断され闘病生活を続ける中
近年は全世界配信のピアノコンサートや
6年ぶりとなる最新アルバム「12」のリリースと
全身全霊で音楽活動を続け

最期まで音楽に情熱を捧げた静かな死去でした


今回は最期までドラマーとしての復帰を切望し、
ピアニストとして音楽家として最期まで音楽に捧げた、
ミュージシャン高橋幸宏/坂本龍一を偲んで

ドラマーとしてキーボディストとして
作曲家としてアレンジャーとして 二人が参加した楽曲を

特にYMOの仲間達との共演作にスポットを当てて
ドラマー高橋幸宏、キーボーディスト坂本龍一の功績を

振り返ってみたいと思います

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​■ もくじ ■​

M1 (1981)『GIGI, LA DANSEUSE』​
M2 (1980)『Aino Sono』​
M3 (1975)『Time To Noodle/Suki Suki Suki​』​
M4 (1979)『KILYN』​
M5 (1980)『RADIO JUNK』​
M6 (1983)『City of Beauty』​
M7 (1981)『Last Pretender』
M8 (1978)『Jikanyo Tomare』

​M9 (1985)『Imadakara』​​
M10 (1978)​『This Could Be The Night』​

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
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​- 音楽解説 -​
-----------------------------------------------------------------------------------
▲目次へ▲
△▼ △▼ △▼

​加藤和彦 - 浮気なGigi ​(1981)​​
Kazuhiko Katō - GIGI, LA DANSEUSE
収録アルバム『ベル・エキセントリック』

​​​​​この時期のドラミングを
フィル・コリンズが
パクったらしい​



フォーク全盛の60年代から
フォークの造りでロックを感じる楽曲を制作し

歌謡界に於いても歌謡曲とロックとの橋渡し役を果たし
日本の音楽にロックの精神を根ざす事に貢献した

アーティスト加藤和彦

80年代テクノブームを牽引してきたYMOが全面参加し
欧州音楽を歌謡曲に落とし込みながらロックの言語で演奏する
実験的精神の一つの成果の現れとした作品からの

坂本龍一による先進と退廃が同居する「世界系」な乾いたサウンドに
高橋ユキヒロらしい独特のフィルインを効かせながら斬りつける

YMOのテクノサウンドとは又違った
坂本龍一と高橋幸宏のプレイを聴くことが出来るナンバーです




加藤和彦

本曲制作時 YMOは「BGM」発表の時期に当たり
YMOが牽引したテクノポップが過渡期にあった時期もあり

YMO自身もマンネリから脱却する様に
短い繰り返しを音楽に落とし込む
ミニマム・ミュージックに活路を見出そうとしつつ
実験的な音楽を追求していた事も加わり

この時期テクノに傾倒していた加藤和彦もその風潮を察知して
加藤和彦の持ち味のロックをベースにしたシンセサウンドという形で

YMOには無かった「闇」の面を浮かび上がらせる様な
退廃的空間系が得意な坂本龍一の

全体的に重めのサウンドを効かせた摩訶不思議な世界観の

YMO系では余り耳にしない個性的な音で
レコーディングしております

前作『うたかたのオペラ』では急病で不参加だった坂本龍一は
ラストナンバーの『​ジュ・トゥ・ヴー​』
加藤の作品では無いエリック・サティ-のピアノ曲を演奏するなど

もはや加藤和彦のソロ・アルバムという意義を越えた所の
欧州三部作となった「コンセプト・アルバム」としての音楽制作に対して
存在を見せ付けた参加となりました


高橋幸宏は3枚目のソロ『ニウロマンティック』をロンドンで録音中でもあり
加藤和彦のパリでのレコーディングには中断しての参加でした

高橋幸宏が使っていたスタジオはビートルズのプロデューサー
ジョージ・マーティンが作った「エアー・スタジオ」でしたが
それを押さえた状態で参加するという

日米貿易摩擦が起きる程の経済大国となっていた当時の日本の音楽界の
金に糸目をつけない贅沢な采配だったと言えます

高橋幸宏がロンドンで録音していたのは加藤和彦から受けた
「その場所に行かないと自分がやりたい音楽は作れない」
というアドバイスからで

ロンドンは湿気が多く
ドラムの様な楽器はチューニングが狂い安く

音が大きく鳴り響きやすいドライな環境のアメリカとは大きく異なり

その為アメリカではナチュラルに録る事に対して
イギリスでは音を調整して加工する傾向が生まれて

音楽の方もイギリスでは加工されたものが流行るという事が
実感して分かったそうです

このアルバムでの高橋幸宏のドラムは
タム類の上面のみにヘッドを張ったエッジを効かせたサウンドで
独特のタイミングの斬り込む様なフィルインを随所に入れた
特徴的なドラミングを演奏し

楽曲のアレンジの一端を担っております



▲目次へ▲
△▼ △▼ △▼

西城秀樹 - 愛の園​​(1980)​​​
​Hideki Saijyo - Aino Sono
収録アルバム『ベスト・ヒット/西城秀樹』他

​​​​​​​​「れぬ」​​にも
​「おどるポンポコリン」​にも無い
意外性​​​​​​


パワフルな歌唱が特徴の昭和を代表するTOPアイドルの一人で
『傷だらけのローラ』『ヤングマン』などの数々の大ヒット曲を持つ

2018年に63歳で惜しくもこの世を去った国民的シンガー西城秀樹

パワフルな歌唱とは異なるささやく様な歌唱のアプローチで
全編シンセサイザーの演奏による
キャリア中 非常に珍しい楽曲となりながらも
オリコン7位の大ヒットとなったシングル曲です



​西城秀樹​

本曲は西城秀樹の32枚目のシングルとしてリリースされ
スティービー・ワンダーの1979年に発表された映画音楽
『シークレット・ライフ』の収録曲のカバーとして制作された

オリジナルも日本語歌詞で作られているという
洋楽のカバー曲としては非常に珍しいタイプの
メッセージソングとなっています


1973年の『情熱の嵐』から始まり
『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』『 ホップ・ステップ・ジャンプ』までの
国民的大ヒットを飛ばしてきた西城秀樹に取っては

80年代に入り英国発の新たな音楽ムーブメント
ニュー・ウェイヴ・ミュージックが日本に上陸し

折しも新たな表現を求めていたフォーク・ミュージックが
「ニュー・ミュージック」へと様変わりをした時期と重なった事もあって

前年度の国際児童年宣言で制作された
ゴダイゴ『ビューティフル・ネーム』の大ヒットなど

日本経済の世界的大躍進を受けて
日本の音楽界が世界を視野に入れた動きを意識した

次のフェーズに至る一環とした

72年のデビュー・アルバム『ワイルドな17才』
ポール・サイモン『母と子の絆』のカバーをする程
元々がバンド志向で洋楽に精通している事を兼ねた

世界平和や人種問題に関心の深いアーティストとして知られる
スティービー・ワンダーのバラード曲の中でも
メッセージ性が強くボーダーレスな宗教心を感じる本曲を

「世界平和」への関心の高まった
当時の世相を考慮してシングル曲に選んだ

理由があったと言えます


又、本曲は
当時の音楽番組でのパフォーマンスでは珍しい
間奏パートをカットしないで放送し

本曲の持つエモーショナルな側面が削がれる事無く演奏された
数少ない楽曲でもありました



YMO Tribute Vol.4 O-Setsu-Y+3 Rehersall (4281918220)
​松武秀樹​

本曲は編曲を坂本龍一が担当し
シンセサイザーの巨匠冨田勲に師事しYMOの世界ツアーでも同行した
シンセサイザープログラマー松武秀樹
シンセのプログラミングを担当した

これは当時のオリコン大ヒット曲となった歌謡曲としては
おそらく初となった

唄以外は、冒頭の鳥のさえずりの効果音を含めた
全編シンセサイザーのみで作られた楽曲となりました


本曲の最たる特徴としては
礼拝堂で賛美歌を唄っている様な印象の

多分に「宗教的」イメージが強い事でも異色で

教会堂のパイプオルガンを思わせるシンセにより
荘厳な礼拝を思わせる演奏を再現しています


坂本龍一は東京芸術大学音楽部の学生だった当時
クラシック音楽には発展性は無いと考えて民族音楽に傾倒し
宗教を含めた人間学に興味を持ち

その後の音楽活動へ影響を与えた事から

賛美歌が礼拝をより豊かにして会衆を一つにする様に
主を褒め称える聖書の詩篇の様な歌詞で作られた本曲を

「愛」というワードで 聴く人々を一つにする為の
ある種の「儀式」を思わせる音を意識しながら

本曲の編曲を仕上げたと言えます



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​サディスティック・ミカ・バンド
- WA-KAH!CHOCO/塀までひとっとび​​(1975)​​​

​Sadistic Mika Band - Time To Noodle/Suki Suki Suki
収録アルバム『ホット・メニュー/黒船』

​​​今にしてみれば3代目ミカ
木村カエラだったという不思議​​​​​​​​​​



先程の加藤和彦が率いる伝説的バンドサディスティック・ミカ・バンドが
ピンク・フロイドのエンジニアリングでも知られるクリス・トーマス
プロデューサーに迎えて制作された『黒船』『ホットメニュー』リリース時の

イギリスのTVに出演した時の貴重な映像からの
非常に卓越しハイクオリティーなパフォーマンスになります





​サディスティック・ミカ・バンド​


学生時代からスタジオ・ミュージシャンとして活動して来た高橋幸宏は
『学生街の喫茶店』で知られるフォークグループ
「ガロ」のバックバンドを経て
同じくバックバンドでベースの小原礼と共に

20歳の頃 加藤和彦に誘われてミカ・バンドに加入します

ミカバンドには
後に80年代のフュージョンブームを牽引するギタリスト高中正義

小原礼が脱退した後は
沢田研二「TOKIO」のアレンジャーとしても作曲家としても知られる
ベーシスト後藤次利が在籍し

当時の日本のロックバンドとしては
非常に高度な演奏力を誇る集団でもありました


ミカバンドは当時欧米で流行だったグラムロックを日本の音楽に落とし込み
ファンクのリズムを日本の祭り囃子と掛け合わせながら

日本語によるロックの可能性を拡げたバンドで

加えて欧米の人気フュージョン系グループ
『ウェザー・リポート』『マハビシュヌ・オーケストラ』の様な

高度でテクニカルなフュージョン楽曲もこなす

日本人ミュージシャンが欧米に引けを取らない演奏で音楽を演れる事を
世界に証明したバンドとしても

日本の音楽史に名を残す歴史的ロックバンドとして現在も語り継がれる
唯一無二な音楽集団でした


しかしミカバンドが活躍した70年代当時の日本は
折しも時代が「大学紛争」での騒乱にロックが関わっているという
誤った認識と偏見がまかり通っていた事から

「ロックは不良」「ロックは反抗」という
ロックミュージックに反社会的イメージが付いていた時期で
ロックがまだ一般リスナーにまでは浸透していなかった為に

ミカバンドがどれ程の高いクオリティーで音楽を演っているのかという事が
殆ど理解されて無く

日本国内での評価は海外での反響に対して非常に低いものがありました


例えば今回紹介している英国の音楽番組に出演した時の演奏には
一曲目の演奏中ボーカルのミカが
ポラロイドカメラでメンバーの撮影をしている所が映っています

これは現在であれば
バンドのビジュアルをファッショナブルに演出する為の
「パフォーマンス」という言葉で説明できるこの行為の主旨も

70年代当時の一般の日本人がこの映像を観たとして
「あのドレスの女は演奏中一体何をやっているんだ?」と
おそらく誰一人理解出来る者は居なかったと思います

この様な
音楽とビジュアルをファッショナブルに演出する試みは
全米公演で赤い人民服風コスチュームで演奏し
東洋と電子音楽を思想的文脈でビジュアルに落とし込み
センセーショナルな世界デビューを飾る事に成功した
YMOへと受け継がれるまで

今しばらくの時間が必要でした

したがって日本でのミカバンドの評価は欧米での人気が高まった事で
逆輸入する形でようやく注目される様になったという経緯があり

日本でのロックの定着がヘビーメタルブームからの
80年代以降からという歴史があった事からも

ミカバンドの評価が低かったのは
理解されない音楽性にあるのでも
ましてロックが不良の音楽だと嫉まれていたからでも無く

そもそも日本にロックが受け入れられる土壌が無かった所に
理由がありました

故に日本においてミカバンドとは
登場が10年早かったバンドであったと共に

逆に10年早くミカバンドがあった事が80年代に起こるロックブームを
一足先に道を拡げていた形で爆発的に広がる事に繋げるという

日本の音楽を次のフェーズに移す事に貢献した
バンドでもあったと言えました


ミカバンドが画期的だったのは当時の日本の音楽界が
曲の編曲を全て譜面におこして
譜面に書かれた通りの演奏をしていた時代に

現在では当たり前となっている
スタジオにメンバーが籠もって曲を作る
「ヘッドアレンジ」を既に行っていた所や

デビュー当時メンバー全員でロンドンの雰囲気を味わうという
ただそれだけの為に2、3ヶ月滞在しに渡英したりと

各メンバーの音楽性を高める事に努め

高橋幸宏は従来のロックドラマーにあった
体育会系体型で無骨なイメージを払拭し

線が細くイヴ・サンローランの靴を履きドラムを叩く
ファッショナブルなイメージを音楽界にもたらすなど

それまでの日本の音楽界の常識を覆して
サウンドだけでは無く行動やファッションまでも音楽へと昇華し
日本の音楽をスタイリッシュな方向に導いた

ミカバンドの功績は計り知れないものがあったと言えます



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​渡辺香津美 - KILYN ​(1979)​​
Kazumi Watanabe- KILYN
収録アルバム『​KILYN』

​​​​​​​清水ミチコユーミンネタ
ギター弾いてました​​​



日本を代表するジャズギタリスト渡辺香津美の、

坂本龍一を共同プロデュースに
高橋幸宏、矢野顕子、小原礼、村上(ポン太)秀一
マライアの清水靖晃
錚々たるメンバーによって制作された

「ジャズ」と「テクノ」という2つのジャンルを前半後半に振り分けて
2つのジャンルをまたいで演奏する渡辺香津美のギターを堪能できる

多分に実験的傾向が強いフュージョン系アルバムでの

当時スポットを浴びていた「レゲエ」のラテン系音楽の硬めのリズムを
マーチングバンドなどで演奏される

スネアドラムにスティックを細かい跳ねでロールする
「パラディドル」奏法で流麗に演奏し
土臭いラテン系音楽に気品と知性をもたらした

コチラも「ラテン」と「ジャズ」をまたいで華麗に演奏する
フュージョンドラマー高橋幸宏のプレイが光るナンバーに
なっております


Kazumi Watanabe 2011
​渡辺香津美
(画像参照: wikimedia)


高橋幸宏はYMOが1978年にデビューした後も
自身が加入するバンド「サディスティックス」での活動を続けながら
並行してセッションの仕事も行っていたという

そんな非常に多忙な時期のレコーディングの一つが
渡辺香津美のアルバムの「テクノサイド」での参加でした

渡辺香津美の特徴は
正確なピッキングでなめらかなフレージングを奏でる
クリアながらも流麗で粘りのあるギターサウンドにあります

渡辺香津美の代表作 (80)『TO CHI KA』の一曲目の
「リキッド・フィンガー」というタイトルが現している様に

割りと硬めのリズムとキーボードをバックに
ウォームでキレのあるギターでサウンドに拡がりを与えて

ギターの存在感をアピールするスタイルで
日本の「フュージョンギター」を決定付けたギタリストだと言えます


渡辺香津美は元々細野晴臣のファンで
細野のセッションにはまだYMOが無かった頃から度々参加しており

それがきっかけでYMOが世界ツアーに出る時に
矢野顕子と共にサポートメンバーとして誘われる事になります

当時のシンセは「MIDI」企画以前の
複数のキーボードを同時演奏する技術がまだ無かった為

YMOがライブをするには坂本龍一以外の演奏者にも
キーボードパートを演奏して貰う必要があった事と

シンセの音色を瞬時に変更出来る技術も未発達だった事もあり
レコードと同じ音での演奏が困難だった事から

サウンドの欠落を物理的に埋める為の
キーボードよりも柔軟な対応が出来る楽器を要していた事で

「テクノ」というジャンルがまだ馴染みが無かった欧米で
グローバルな楽器である「ギター」がその橋渡しになるという期待から

思いっきりアドリブでソロを取って欲しいと言われた事で
参加を決定します


渡辺香津美は「テクノ」のシンセ音との「ギャップ」を埋める為
ウェーブ系や空間系のエフェクターを駆使して

ライブで違和感無く浮かないギターを目指しながら
ギターの存在感を観客にアピールして演奏しました


この時の演奏は後日ライブ盤としてリリースされるのですが
渡辺香津美がYMOとは異なるレーベルに所属していた関係から
ギターの演奏を使用出来なくなり

代わりに坂本龍一のキーボードに置き換えられたものが
『パブリック・プレッシャー』というタイトルでリリースされました


その後、坂本龍一がDJを担当していたFMラジオ番組
「NHK サウンドストリート」内で
『ライディーン』他、ギター入り演奏がオンエアされた事がありましたが

1990年に入って資本会社が変更し販売元がYMOと同じになった事で
91年に2枚組CDで『フェイカーホリック』というタイトルで
渡辺香津美ギター版がめでたく日の目を見る事となりました



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シーナ&ザ・ロケッツ - RADIO JUNK ​(1980)​​
SHEENA & THE ROKKETS - RADIO JUNK
収録アルバム『真空パック』

​​​​​​​​​シナロケアルバムと言うより
ほぼYMOとのコラボ​​​​​​​​​



1979年のアメリカ公演から凱旋帰国したYMOの日本公演で
オープニングアクトを務めた事でも知られる
九州福岡出身のギタリスト鮎川誠シーナとの夫婦デュオ
シーナ&ザ・ロケッツ

YMOとの共演作となった代表作的アルバムからの
高橋幸宏が手掛け YMOのライブ人気曲としても知られるナンバーです




​シーナ&ザ・ロケッツ​

70年代後半、九州から上京して出演したステージが
演歌レーベルの「エルボンレコード」の社長に気に入られたという
変わった経緯でレコードデビューした「シーナ&ザ・ロケッツ」は

当時イギリスの音楽シーンでウィルコ・ジョンソンなどが牽引した
パブ・ロック・ムーブメント
新たな騎手として見出されたエルビス・コステロ
オープニングアクトを務めた事で

東京公演を観に来ていた高橋幸宏の目に留まり
それがきっかけでYMOのアルファレコードへの移籍となり

YMOのプロデュースで代表作となる『真空パック』のリリースへと
繋がる事になります

ここでのYMOはプロデュースに加えて「参加」となっていますが
事実上の「コラボレーション」であり

実際には「シーナ&ザ・ロケッツ」を素材とした細野晴臣の作品
と言っても良い程

シナロケには無い「テクノ色」が強い作品となりました

コステロとのツアーでも音楽性に付いて楽屋でコステロとやり合う様な
シナロケの様なパンクなロックバンドが

他人の手によってバンドのサウンドが変わってしまう事に
抵抗を感じたのではと思われる所ですが

リーダーの鮎川誠は「真空パック」制作時に細野晴臣から
「楽曲を素材に料理させてほしい」という要望を受け入れて

自分たちの楽曲が「YMO」のエッセンスが入って行く事に
面白みを感じたと言います

これに付いて面白く感じなかったのは
むしろロックファンの方だった様で

反響が大きかった分 大きな論争にも発展しました

一方、鮎川にとって音楽は「アーティスト活動」というよりは
「生活の一部」

次のステージがあるかどうか、生き残れるかが重要であり

リリースするアルバムの成績やライブでの周りの反応を気にするよりも

子供が通う学校の同級生の親達にロックファンが居て
鮎川夫婦がレコーディングで忙しいのを察して
子供の面倒を代わりに見てくれたりと

音楽を演る上での日常生活
家族や手伝ってくれる友人仲間達で乗り切る事の方に
大きな意味を感じている様でした

最近のインタビューでも鮎川は

誰かが経験したことを皆で共有し
違う人間が同じパターンの人生を送る世の中になり
皆萎えてしまっている と語り

ロックとは正解を見せる事では無く 息が合う瞬間を生むこと

だと答えています

好きなアーティストの曲に似るのは誇らしい事であり
コードなんて借り物だと開き直ってギターを弾く
上の世代から受け継いだものに
自分たちの思いを重ねるだけという

それが鮎川が感じる音楽であり

細野晴臣にどれだけ料理されようとも
YMOの音楽的実験台にされたと揶揄されようとも

『RADIO JUNK』に至っては演奏がYMOでほとんど高橋幸宏の作品だ
と言われようとも

誰の手が入ろうとも自然体がそのままロックとなる
鮎川の揺るがない圧倒的存在感があったからこそ

「真空パック」がシナロケの代表作となった
大きな理由があるのだと思うのでした



鮎川誠
1948 - 2023



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​郷ひろみ - 美貌の都 ​(1983)​​
hiromi go - city of beauty
収録アルバム『比呂魅卿の犯罪』

​​​当時
YMO郷ひろみが組んだらしいという
​​​
知ってました​​​



50年ものキャリアを持ち現在も現役で活躍する大スター郷ひろみ
デビューから11年となる83年に

坂本龍一をプロデューサーに迎えて
高橋幸宏を始めとするYMOファミリーが総出演する

楽曲提供に忌野清志郎、中島みゆき、矢野顕子、糸井重里、筒美京平という
錚々たるメンバーによる大ヒット異色アルバムからの

作詞 中島みゆき 作曲 筒美京平 演奏 YMO の豪華共演となった
大ヒットシングル曲です



本曲は坂本龍一が好みとするデカダンス的ロマン主義を感じるサウンドに
高橋幸宏の硬めのラテンリズムに太くうねる細野晴臣のベースが絡み

艶のある郷ひろみのボーカルを引き立てる事に専念した作品で

シナロケの時の様な「オーバープロデュース」は止めて

高音でよく伸びてリズムに乗りキレのある
特徴的な郷ひろみの唄の良さを引き出す事に徹し

いつものテクノサウンドは鳴りを潜め「歌謡曲」の様式に務める
プロフェッショナルな側面を持ったYMOの演奏が聴ける

貴重なナンバーとなっております



​郷ひろみ​

この時期の郷ひろみは 90年代にバラード歌手として再ブレイクする前の
デビューから10年が過ぎた歌手としては過渡期に当る節目の時期に

これまでにも西城秀樹や前川清、桑江知子やサーカスなどに
編曲、楽曲提供をして日本の歌謡界に新風を巻き起こしてきた

坂本龍一を始めとするYMOファミリーに白羽の矢を立て
音楽的にもキャリアとしても新たな飛躍を目指し
話題性に溢れる異色作としてリリースされました

本アルバムは坂本龍一が好む欧州デカダンス満載の
それまでの歌謡曲には無い浮遊感溢れる個性的なサウンドで占められた
クオリティーの高いシティーポップな仕上りとなったという点では

YMOの面々は最高の仕事をしたと言えますが

規制のジャンルを破壊して再構築しながら「遊び」の精神を忘れない
奔放で予測不能でパンクより過激なYMO音楽の良さは封印された様な

郷ひろみの更なる飛躍を目論みながら大胆な変化は求めない
当時の歌謡界の保守的な体質へ忖度した内容と捉えても

興味深いアルバムだったと言えます



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​ピンク・レディー - ラスト・プリテンダー ​(1981)​​​
PINK LADY - Last Pretender
収録アルバム『PINK LADY』

​​​​ケイ​ちゃんの中では
この曲は抹消だったそうです​​



ミーチャン、ケイチャンの愛称で知られる伝説的アイドルユニット
ピンクレディーが解散宣言後にリリースした
21枚目のシングルとなった楽曲です

本曲は作詞 糸井重里、作曲 高橋幸宏による
これまでにないテクノポップサウンドでリリースされた意欲作で

硬質なテクノサウンドに加工された歌声で
ダイヤの様に映るガラス玉の様な想い出を捨て
偽りの愛にピリオドを打ち
未練を残さず去って行くヒロインを描いた

ピンクレディーの解散を予見する衝撃的な内容の
話題性の高い楽曲としてリリースされました

しかし解散後ソロになった未唯mieが
今もステージで本曲を歌っている事に対して

ケイこと増田恵子にとって本曲は、なぜ今この曲なのかという
自身の境遇に当て付けられたかの内容に感じられたのか
受け入れられない「抹消」した曲となった様で

コンビ間での温度差が顕著となった
知られざるシングル曲となりました

事実本曲はピンクレディーとしてライブで唄われる事は無く
オリコンチャートでも85位と全く振るわず

セカンドシングル以降オリコンラン1位を独占して来た
大人気女性アイドルだったとは思えない
寂しい最終章となりました



​ピンクレディー​


リアルタイムでピンクレディーの快進撃を観て来た
熱狂的ファン以外の一般視聴者が持つ
ピンクレディーに対して持つ「感覚」は

どこかの時点でピンクレディーが消えてしまったという
「空白」だと思います

これはおそらく「カメレオン・アーミー」を堺に
その後のヒット曲が思い出せない感覚を指し

「カメレオン・アーミー」がリリースされたのが1978年12月で
ピンクレディーが米国のTV局でレギュラー出演する為に渡米する

アメリカ進出と共にピンクレディーが日本のTVから消えたと感じた
その様な「空白」だと言えます


実際には79年の3月に『ジパング』がヒットしており
続く5月は『波乗りパイレーツ』をリリース
B面のUSAサイドにはビーチボーイズがコーラスで参加するという
超豪華な楽曲となり

同年5月に全米進出となった「KISS IN THE DARK」が
9月に発売されているので

間断なくリリースはされている様に見えます

しかし『ジパング』を堺に子供達が唄って踊れる
あの愉しいピンクレディーは

全米で活躍中の9月に子供のニーズ路線を中止した事で消滅します


その後70年代後期に全米でブームとなっていた
ディスコミュージックを導入した「大人路線」へ切り替え

ピンクレディーの2人も納得となった
『マンデー・モナリザ・クラブ』をリリースしますが

「KISS IN THE DARK」の全米チャート37位という
日本音楽界にとっての快挙を成し遂げた事とは裏腹に

従来のファン層だった日本の「家族層」には
耳慣れないディスコミュージックは不評だった事と

子供が観るには相応しくない本来の「セクシー路線」に戻った事で

主な購買層だった「家族層」の全て失った事に加えて
渡米した事で日本国内でのTV番組から消えた事など

それら全米進出に纏わる「路線変更」の全てが裏目となり
人気は急激に下降します


実際は79年4月の「東映まんがまつり」内での
『ピンクレディーと春休み』と題した短編映画公開の時点で
ファン層だった子供達の心が
既に離れ始めていたという証言もあり

折しもピンクレディーがTVから消えた後
様々なアイドルがお茶の間のTVを賑わせる様になり
世間の関心がそちらに向かって行った事で

1980年5月にピンクレディーが帰国した頃には
完全に忘れ去られた存在となる事で

決定的となるのでした


帰国後リリースしたシングル曲は大きく順位を落とし
再び日本のメインストリームへ返り咲く事は叶わないまま

ピンクレディーは日本の音楽界の居場所を失い
9月には引退を余儀なくされる事になるのでした


当初見積もった半数以下の1万5千人の動員止まりとなった
みぞれ混じりの雨の中で決行された後楽園での引退コンサートは

「旬を過ぎた」タレントの末路を見る様な
後に、ブームが衰退してまるで捨てられた人形が
雨ざらしになって必死に踊っていると評される様に

悪夢の様な出来事として歌謡史に刻まれる事となるのでした




ピンクレディーのブームが去ってしまった要因は
世の中のニーズを悪い意味で裏切った結果だと言えますが

引退した後度々復活を繰り返して
2010年の解散やめ宣言の後は

全盛期と変わらないシェイプを保ったスタイルで
唄って踊るピンクレディーが完全復活し
往年のファンを湧かせます

従ってデビューから追いかけてきたファンの目から見れば
「引退コンサートは終わりでは無く新たな始まりだった」
という言葉もうなずけるものがあり

ピンクレディーの二人にとって「引退」とは
この先ずっと無理のない形の活動を続ける為の

「ブーム」という余計なしがらみを捨て去る
「リセット」だったという見方もあるのかも

しれません



本曲の高橋幸宏作の楽曲が起用された経緯は
知る由もありませんが

元々は元ポニーテールRAJIE (ラジ)に提供した
「偽りの瞳」を原曲としたものに

人気コピーライター糸井重里が
新たに歌詞を付けテクノサウンドにアレンジした

テクノ歌謡となったもので

当時ブームとなっていた「テクノ」に目を付けた事務所の
棚ぼたヒットを目論む一環の中でのダメ元のリリースだった事は

想像に難くなく、おそらくそうだと思います

81年当時のYMOは飛ぶ鳥を落とす勢いで
ブーム真っ只中の時の人となっていた時期でしたが

一介のミュージシャンからスターとなり
自宅から出るだけでファンに注目され

これまでの「自由な生活」破壊された事に
ストレスを感じていた坂本龍一

「毒気」が創作に影を落としていた時期でもあり

世間の高まる人気とは裏腹に
メンバー間がギクシャクした中での
タイミングの悪いオファーだったと言えます

その「毒気」を作品やパフォーマンスに投影して
「スネークマンショー」の様な企画が生まれて

武道館公演では自称「プール」と呼ばれた水溜りを作り
観客が水遊びをしながらコンサートを観て愉しむと称して
お笑いの演目を続けてYMOが最期まで登場しない

「過激な悪戯」を世の中に仕掛けていた頃に当たり

そんな悪ノリをしていた当時のYMOのプロダクションに
その様なオファーがあったのなら

当然センセーショナルな仕掛けを求めていると捉えて

高橋幸宏の過去楽曲に敢えて「引退」をほのめかす
センセーショナルな歌詞を付けて
ピンクレディーの楽曲提供を行った可能性もあり

そんな楽曲に対するピンクレディー側の温度差と
楽曲提供に対しての思惑が噛み合っていない様がレコードとなった様な

チグハグさが音になった様な仕上がりになったと言えます


本曲を封印では無く抹消と言ったケイこと増田恵子の真意は
後に語られるスキャンダルからの

実にありがちな人間関係のもつれが引き金となり
信じていた「芸能界の親」となった人物に切り捨てられ

そうして「ピンクレディー」に居場所を失った疎外感が言わせた
業界への不信感の現れであった様な印象がありましたが

「飛躍」だと思い込んだ「渡米」
本来ピンクレディーが歩まなければならなかった「道」から
「大きく踏み外す」結果を生んだのも

ピンクレディーとは当時の芸能界が生み出した「虚像」のひとつで

「セクシーなお姉さんが楽しく歌って踊る」子供のアイドルだったのも
本来スキャンダラスなセクシータレントが上手に世の中に中和されて見える様

芸能界が企画演出する「TV」が「受け皿」として機能していた
日本のTV無しでは存在し得ないものだったからと言えます


そうしてピンクレディーが日本の社会に居場所を失ったのは

渡米後に「大人向けのセクシータレント」へと大きく路線を変更させた
「受け皿」を捨てた本来のピンクレディーを受け入れる居場所が
当時の日本の社会に無かった事が大きな要因だったと思われ

人間関係のもつれでピンクレディーにしか居場所が無くなった増田恵子が
そのピンクレディーでの居場所を失った事で二重に居場所を失い

ピンクレディーをおもちゃにされた様な「Last Pretender」には
いつもの様なデュエットパートは無く

ケイのセリフがフィーチャーされた未唯mieが単体で唄う
事実上の未唯mieのソロ曲となった事で

本曲を聴く度ピンクレディーに居場所を失った事を思い知らさせる
悪い思い出しか無い曲となった事が

ケイが本曲を抹消しなければならない理由なのかも
しれません





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​矢沢永吉 - 時間よ止まれ ​(1978)​​​
Eikichi Yazawa – Jikanyo Tomare
収録アルバム『ゴールドラッシュ』

このセッションが後の
YMOに繋がる事になるのでした



70年代の日本の音楽シーンにロックを根付かせる立役者となった一人で
既に50年ものキャリアを持ち70歳を越えた現在もトップアーティストとして

日本の音楽シーンを牽引する大スター矢沢永吉

キャロル時代からのトレードマークだった
「リーゼント族」「革ジャン」「バイク族」という
「不良」のイメージを払拭させ

一般リスナーに「アーティスト矢沢永吉」を認識させた
矢沢永吉にとってもターニングポイントとなった大ヒットシングル曲です


現在でこそ矢沢永吉は社会的にも支持される程の
日本を代表するトップアーティストの一人となりましたが

デビュー当時はロックに理解の無い社会の中で
偏見という洗礼を受けながら独自の道を進むという

社会が矢沢永吉の音楽に追い付くまでは「いばらの道」を進む様な
決して平坦な道のりでは無かったと言えます




70年代当時、矢沢永吉率いる「キャロル」の登場は
ロックが一部音楽ファンが好むマニアックなものから
メジャーなものへと引き上げるだけで無く

日本語によるロックの一つの形を提示し
この後訪れる空前のロックブームをも予見する様な
鮮烈な印象を与えるものでした

一方キャロルの評判は音楽ファンと世間との間には
大きなギャップがあり

イギリスのリバプール発信の本格ロックバンドが
日本に誕生したという評価から熱狂的なブームとなって行った
音楽ファン層の盛り上がりに対して

革ジャンにリーゼント姿で
激しいロックを演奏する反抗的なイメージから
「不良の音楽」のレッテルを貼られ

当時激化して社会問題となっていた「学生運動」
過激派の学生達が好んで聴いていたのが
「ロックミュージック」だったという理由で

「学生運動」と「ロック」が同一視された事で
「社会の敵」扱いにされる事になります

その様な「キャロル」に対して世間が下した評価は
多くは偏見によるものではありましたが

コンサート会場ではバイク族が親衛隊に付いた事で喧嘩や騒乱が絶えず
キャロル周辺で過激なファンが実際に引き起こした数々のトラブルは
当時問題視され

それによって世間と音楽ファンとの間の温度差が
天と地程の差があった事でも

当時の日本に「ロック」が「不良」のイメージが先行

ブルースから派生した伝統的音楽ジャンルとして
欧米の様に正しく社会に根付いて行かなかった様を
物語るものがあります


それ故にキャロル時代は不良の代名詞の様に語られながらも
攻める姿勢を崩さない矢沢永吉の音楽は
見た目で判断する当時の社会の世相に斬り込む様な力強さを持ち

音楽に思想を投影していたフォークムーブメントの延長にあった様な
日本語でロックを演る事に限界を感じていた当時の日本の音楽界で

不良のビジュアルでアメリカン・ロックをカヴァーしていた
ハンブルグ時代のビートルズの様に登場し

メッセージ性や思想を投影せずに、
音楽に乗る歌詞を感覚的にチョイスして日本語のロックを目指し

「不良」という要素をロックに投影させた刺激的なビジュアルで
暴走族など「アウトロー」を自称する当時の若者層に
絶大な支持を得るだけで無く
女性層、子供層を含めた一般層の支持を得た事で

日本でのロック層の幅を広げる事に努めました


やがて社会にもロックが浸透して行くに連れ
矢沢永吉の音楽の激しさが決して反社会的なものでは無く

ストイックで繊細な神経質な性質が投影された
怒りと悲しさを秘めた激しさにある事が見えて来る様になると

これまで過激なファンが起こして来た問題も
ロックを敵視して来た社会をも甘んじて受け入れ包み込む

矢沢永吉の大きな人間的魅力と優しさの存在に気付き
そんな矢沢の音楽に人々は魅了されて行くのでした



​矢沢永吉​

矢沢永吉は誰もが認める日本でも屈指の
カリスマ性のあるアーティストとして知られていますが

激動の半生を送ってきた自身の人生観から生まれる
歯に衣着せぬ様々な言動による独特の持論

「伝説」として残っている事でも良く知られています

それらの多くは世に物申す様な心に刺さるものの他
熱烈なファンによって話が過剰に盛られて行った
正確な語録では無くなってしまっているものや
真意が定かではない殆ど「都市伝説」と化した様なものも含まれるなど

情報が錯綜している事でも有名だと言えます


例えば
『赤いポルシェで迷子』の話では

コンサートツアーの移動で矢沢が赤いポルシェに乗って
スタッフが乗るツアートラックの前を先導する形で走っていたら

飛ばしすぎてトラックとはぐれた時に地元の暴走族に声をかけ
矢沢のポルシェを先導して国道まで案内してもらったという

地元ファンとのややヤンチャではあった
当時ならではの豪快な触れ合いのエピソード

いつの間にか
『赤いポルシェで暴走族を先導』
変わっていたり


良く知られる『矢沢の2秒』発言などは
「お前の年収矢沢の2秒」だったり「お前の人生矢沢の2秒」だったりと
人によって言う事が異なり、

元々の話が
高学歴を鼻にかけ高い地位を笠に着てマウントを取って話をする
音楽関係者の高飛車な言動にキレた言葉という様な

言動に至る「真意」があっても

その切り取られ方次第で「批判」を生む様な言動に受け取られてしまう事も
しばしばある事でも知られています


■「時間よ止まれ秘話」に付いて■


本曲の制作秘話に付いても

CMプロデューサー大森昭男の話と
音楽プロデューサー関口直人の話と
歌謡曲愛好家の濱口英樹の著書
「ヒットソングを創った男たち~歌謡曲黄金時代の仕掛人」
を元にしたwikiの解説とは食い違いがあり

どれが本当の話なのか判断に困るものがあります


資生堂のCMプロデューサーだった大森昭男の話では

送られてきたデモテープ
ギター一本で仮歌の英語の歌詞を弾き語りで唄ったものと
作詞のイメージを語ったメッセージが加えられていて

「パシフィック」と言うワードも入って
こんな感じで唄いたいという山川啓介に向けた
プロデューサー視点のものだったそうで

後日山川啓介は難しかったが愉しい仕事だったと語る程の
クリエイティブなものだったとの事です


音楽ディレクターの関口直人の話では

スタッフとの合同打ち合わせの席で
矢沢がギターを持ち込み生で弾き語りをして
それを録音したものを作詞家の山川啓介に送ったとなっており

デモテープの話が生歌に変わっています


一方の濱口英樹の著書によれば
音楽プロデューサー酒井政利の談として

完成した歌詞に対して「人の詞は歌いたくない」と断ったとしており
いきなり話のトーンが変わっております

更に担当者が何度も説得してようやく矢沢が
「条件がある。矢沢、この歌は一生歌わないよ」と
条件付きでOKしたとなっているので

話が根底から覆っている印象があります


矢沢永吉本人はと言いますと2022年6月のインタビュー記事

「いい鍵盤弾きがいるよって教えてもらったら、
面白い詞を書くヤツいるよって聞いたら、すぐに飛びつく。
それが当時まだ世間的には無名だった坂本龍一であり、

5年前に他界された作詞家の山川啓介さんだった。」

とし

「デモテープには曲だけじゃなく、
僕が求めるイメージや気持ちまで吹き込んで、
まだ会ったこともなかった山川さんに送ったんだ。」



本曲制作の時点で山川啓介とは会っていない事や
山川啓介を信頼しきって依頼している様が受け取れて

矢沢本人の話が真実だとしたら
一体どこから「歌いたくない」という話が出てきたのか

一方で実名を出して語っているエピソードの真意を
確かめる術も無し と

関係者によって本人によっても話が違う所が
悩ましい所ではありますw


45年も前の出来事の為に
それぞれの記憶違いという可能性もありますが

これはおそらく人によって話が違うのではなくて、
話の順番が人によって違う為に起こった錯綜なのでは無いかという

印象があります


つまり関口直人最初に会議の席での矢沢の生歌を聴いて
その模様を録音したテープが大森昭男渡り
そのテープが送られてきた山川啓介が歌詞を書いたというのが

正しい時系列なのではと思われます


矢沢の「まだ会ったことも無い」発言に付いては
本曲のシングル盤B面「チャイナタウン」の作詞も山川啓介で
こちらは1977年4月21日にリリースされた3rdアルバム
『ドアを開けろ』の収録曲という

本曲よりも半年も前に作られた楽曲になるので

「まだ会ったこともなかった」はおかしな印象がありますが
これも文字通り捉えれば

実際に会っても会わなくても依頼に応えてくれる
山川啓介とのクリエイティブな関係を語った

「実際の出会い」があったかどうかを語っている訳では無い言葉だと
捉える事が出来ます


一方、濱口英樹の著書のwikiの解説に付いては
著者が当事者では無く一介のライターによるものという性質から


先程の「まだ会ったこともなかった」という切り口で
山川啓介をリスペクトした矢沢永吉の口調からも

上がってきた歌詞に対して「人の詞は歌いたくない」と
ひと揉めあったエピソードは

いわゆる「矢沢伝説的」過ぎますし

実際には「チャイナタウン」で既に山川啓介を起用しておりますので
辻褄が合わない印象は拭えません

更にこの著書ではこの件に付いて

「ところが、2009年の紅白歌合戦に特別出演した際
彼はこの歌(時間よ止まれ)を歌いましたね。
ファンの要望が一番多かったようです」



まるで2009年に封印が解けたかの様な文脈で書いておりますので

実際には本曲がリリースされた1978年の全国ツアー
「GOLD RUSH '78/'79 CONCERT TOUR」でも

83年の「EIKICHI YAZAWA I AM A MODEL CONCERT TOUR」でも

86年の
「FEELIN' COME HA~HA EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR '86」
でも

その後も数多くのコンサートで「時間よ止まれ」は唄われている事や
「チャイナタウン」も同様に78年のライブから唄われている事からも

「人の歌は歌いたくない」という話は道理としておかしい事になり

そもそも「攻め」を信条に「弱み」を持つ事を嫌い有言実行する
「あの」矢沢永吉が、

貫けない様な事を口にするのは考えにくいものがあります

又この話が実話だとしても信憑性に欠ける印象があるのは

おそらくこの語録だけでは重要な要素が欠けていて
話が「不正確」だからだと言えます


・・・これは想像、というかお得意の「妄想」になりますがw


「人の歌は歌いたくない」
「矢沢、この歌は一生歌わないよ」

というのは事実で本当にあった事
であれば

「説得した」「条件がある」というくだりに説明が足りない
「不正確」さがある様な印象があります



これは山川啓介の歌詞が自分がとても書けない様な
くやしい位に良い出来だった事をこの様なひねくれた形で「称賛」した

という話だと 想像して・・・

これは矢沢永吉に取ってみれば
歌詞は素晴らしい出来のものが上がってきたものの
今回の仕事は広く世に出る千載一遇の好機だと言う事もあり

そんな楽曲ならやっぱり自分で歌詞を書くべきかもしれないと
土壇場で思い留まって一旦保留を口にした・・・

そんな可能性が考えられます


それは矢沢永吉にしてみれば
「(やっぱり)人の歌は唄わない(方が良いかもしれない)」という方向
一度「考慮」してみようとした程度のニュアンスで口にした

アーティストとしての「性(さが)」による単なる「一考」だった
のかもしれません

一方で、
一分一秒のスケジュールで動いている関係者からしてみれば
矢沢の言葉はそのまま

「人の歌は(やっぱり)唄わない(唄いたく無くなった)」という
一大事に映ったと思われ

「スターのワガママを何とかしなければ仕事が崩壊する」
という思考

必死に「説得」する流れへ繋がったと捉える事が出来ます


関係者がその様な尋常ではない空気を出したのならば
矢沢永吉が軽く思い付いたひらめきに対しての
リアクションとしては

余りにも温度差があり過ぎると言えます

その場合は
矢沢永吉はそんな関係者から感じた「異変」に対し

その程度の創作上の「機転」も与えられない「不自由さ」を感じて
若干の「不信感」を持った可能性が考えられるので


「ボクは良いけど矢沢はどうかな」エピソードでの
ホテルの指定した部屋を取りそこねた関係者に対しての
自分に対しての扱いを「試す」言葉の様なニュアンスで


「ファンが望むなら応えるが矢沢からは唄わない」という

まだまだアーティストの扱いを心得ない当時の関係者に向けての
ある種の「洗礼」「線引」を行ったのが

「矢沢この唄は一生唄わない」発言の真意だと思われ

その真意が人伝に行くに従って話が変わって行ったというのが
真相という印象があります



従ってなぜこの様に矢沢永吉のエピソード
人によって話が変わり錯綜するのかというのは

まず矢沢永吉自身がこの様な話が出ても
否定も肯定もしない所にあると言えます


ただ、この様に自身の語録やエピソードが一人歩きをして
話が大きくなる様な現象に付いては

必ず新聞を読み情報収集に余念のない
矢沢永吉自身が一番気に留めているのでは無いかという印象があります

従ってこれらの話に付いての言及をする事が殆ど無かったのは
全ては自身が招いた事として静かに受け止めているでもある様な

そんな印象があります

本曲に付いては芸能生活50周年となった節目として
自身のナンバーワンヒットとなり転機にもなった事で

近年のインタビューでは
成功に至った秘訣を「怖がり」という言葉で表し

「怖いから必死で探る、調べる、計算する。
臆病はある種、俺にとってはレーダーなんだ」

と語っている事から

その「勘」に基づいた感性で坂本龍一を見出し、山川啓介と出会い
高橋幸宏がメンバーだったミカバンドのアレンジ術に衝撃を受け
本曲が誕生し

真のビックスター矢沢永吉が覚醒したという

「全てを受け入れる」真摯な姿勢に
矢沢永吉がトップアーティストであり続ける
真の理由があるのかもしれません





高橋幸宏と矢沢永吉との関係は73年頃ミカバンド時代に
日比谷野音や西武劇場などのイベントでキャロルと共演して以来

74年にはジョイントツアーとしてキャロルと共に全国を周った
旧知の仲

矢沢永吉がソロに転向した時は
1976年にリリースした初のライブ版『THE STAR IN HIBIYA』
サディスティックスのメンバーとしてライブをサポートし

矢沢永吉の3枚目のアルバム77年にリリースされた『ドアを開けろ』では
レコーディングにも参加

高橋幸宏は初期の矢沢永吉作品のサウンドを支えたドラマーの一人であり
盟友でもありました

高橋幸宏はキャロルに付いて
各地をミカバンドで一緒に周った思い出深いバンドだと語り

リバプールを思わせるリーゼントに革の衣装でカッコ良く
「ルイジアナ」「ヘイ・タクシー」などの初期の時代が好きだと
コメントしております

本曲では坂本龍一も参加しており
高橋幸宏はこの後の1978年2月19日に
77年に制作された細野晴臣のアルバム『はらいそ』での参加がきっかけで
細野に呼び出され、こたつを囲んで細野からYMOの構想を聴かされた事で

『イエローマジックオーケストラ』が始動する事になるので

その誕生前夜となるレコーディングだったという意味でも
これまでスタジオミュージシャンとして
「裏方」だった高橋幸宏、坂本龍一にとっても

表舞台に出る直前の
重要なレコーディングとなったと言えるのかもしれません



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松任谷由実 小田和正 財津和夫 - 今だから ​(1985)​​
Sadistic Yumi Band - imadakara
​収録アルバム:シングルアナログレコードのみ ​※未CD化​

​トリは「はっぴいえんど」でした​


本曲は
ニュー・ミュージックの大物 松任谷由実、小田和正、財津和夫
1985年に東芝EMI 、EXPRESS、ファンハウスという
レーベルの壁を超えてコラボしリリースした楽曲で

ニュー・ミュージックからJ-popへのムーブメントに向かう
当時の日本の音楽界で

国連が提唱した「国際青年年」を記念した音楽イベント
『ALL TOGETHER NOW』に繋がる話題作となった楽曲です


作詞と作曲は三人の共作ですが
実際の作業はユーミンと小田和正で進められ
財津和夫のタッチは無かったと聞きます

この楽曲の編曲とキーボード演奏を坂本龍一が行い
ドラムが高橋幸宏、ベースに後藤次利、ギターが高中正義
「サディスティックス」の3人が担当

『ALL TOGETHER NOW』ではこの楽曲を唄う三人に加藤和彦を加えた
「Sadistic Yumi Band」 が 一つの呼び物となりました

本曲のアレンジは
どこからともなく響いてくる空間系サウンドと
意図的に隙間を生む硬質な音を同居させて

新しさを感じさせながら古いものが消えていく中での
ひだまりにいる温もりを体現した様な
坂本龍一らしいシンセ音に

重めのサウンドにゲートを効かせて響きを切り捨てる
シンプルな高橋幸宏のドラムがリズムを刻み

終わってしまった恋を友人同士で語り合う様な
全体的に力の抜けた大人のムードの
リラックスした雰囲気の演奏を聴くことが出来ます


この楽曲が披露された
『ALL TOGETHER NOW』というイベントを深読みすれば

この時代の歌謡界で主流だったニューミュージック

日米貿易摩擦が生んだ内需拡大路線を音楽で体現した様な
日本の音楽に洋楽の要素を加えた「J-POP」に取って代わられ

過去のものへと押しやられる様を描いた様な

加えてこの時代特有の「チャリティー」の機運が
多分に政治的背景が濃くあり

司会の吉田拓郎が開会を宣言する様はオリンピックそのもので

音楽への関心がそのまま与党の支持へと若者層を取り込むという様な
音楽が最も政治に近かった時代を思わせるものが

このイベントから感じられるものがあった事は
否めなかったと言えます



​松任谷由実​

高橋幸宏ユーミンとの関係は中学生時代まで遡る程の
旧知の仲で

高橋幸宏の父親は会社経営者で
軽井沢に別荘を持つ程の資産家でもあった事から
常日頃から色々な人が集まる環境にあって

ユーミンは高橋幸宏の実の兄で
音楽プロデューサーの高橋信之

ミュージシャン時代に結成していた
フィンガーズのファンという理由で

高橋幸宏が高校生の時には気がついたら家に
中学生のユーミンが普通に居たという

家族的な付き合いがある間柄でした


ユーミンとの共演は高橋幸宏が高校2年生の時
若者向けTV情報番組『ヤング720』での出演が最初で

ボーカルは「ケンとメリーのスカイライン」のCM曲で知られる
ケンとメリー〜愛と風のように〜東郷昌和が担当し

まだ中学3年生でデビュー前だったユーミンはピアノを弾き
14歳の時に作ったという「マホガニーの部屋」という曲を
TVで演奏しました

この曲は後に全面的に歌詞を書き換えて
後にユーミンの夫となる松任谷正隆が編曲し
76年に荒井由実7枚目のシングル「翳りゆく部屋」として発表されます

ユーミンは17歳で作曲家デビューした後
18歳の1972年に「返事はいらない」
シンガーソングライター荒井由実としてデビューし

その時も高橋幸宏はドラマーとして参加しました

天才少女として謳われてきたユーミンのメジャーデビュー作としては
このデビューシングルは全く売れず

デビューアルバム『ひこうき雲』では
松任谷正隆率いるキャラメル・ママで再録された
いわゆる「テコ入れ」されたものが収録され

この鳴り物入りでリリースされたアルバムは
オリコン年間チャートで11位の好成績を弾き出すのでした

2年後の81年リリース『昨晩お会いしましょう』では
シングル『守ってあげたい』の大ヒットを受けて
オリコンアルバムチャート1位を記録

1997年『Cowgirl Dreamin'』までの17年間
17枚連続でオリコンアルバムチャート連続1位を獲得するという
快挙を成し遂げる事になります


再びユーミンのアルバムに高橋幸宏が参加するのは
初シングル発表から7年後の1979年『OLIVE』まで待つ事になりますが

その後ドラマーとしてユーミンの音楽を支えるのは林立夫を始めとする
他のミュージシャンが務め

家族的な付き合いのある高橋幸宏でしたが
意外にもユーミン作品には余り参加していなかったのでした


高橋幸宏が語ったユーミンとの思い出話の中に
ユーミンがプロデビューを果たした時のスタジオでの作業での事

簡単で単純な作業が続き
まだ若かったユーミンはそれに飽きたのか
「疲れたからもうやめたい」と口にした時

「誰のためにやってると思ってるんだ」と高橋幸宏が怒って

ユーミンはそれをずっと覚えていて
その事をすっかり忘れていた高橋幸宏に
「私が叱られたのは後にも先にも幸宏一人だけ」と言った事や

ユーミンの曲に付いて
89年にリリースされたユーミン21作目のアルバム
『LOVE WARS』に収録された大ヒット曲『ANNIVERSARY』に付いて

その曲の行間に含まれた
信じられない人をそれでも信じようとする切なさを読み取って

高橋幸宏90年のシングル『1%の関係』
「夢に開く穴に落ちないで」と唄い

ユーミンの曲のアンサーソングを作っていた話など
これらを思い出として語る高橋幸宏は

ドラマーとしてユーミン作品に参加しなくても

ユーミンとの間にある特別な繋がりと強い信頼関係
非常に近い距離感を感じさせるものがありました

それは学生の頃から家族の様に過ごしてきた「兄妹」の様な関係から
その様な印象を受けるものがありますが

多くは高橋幸宏が人との間に築く「絆」にある様に思われます


高橋幸宏はYMOに於いても
坂本龍一細野晴臣とを繋ぐ役割を果たして

強い信頼関係を築いて来ました

ミュージシャン界隈で有名になっても
一般人は知らない「無名」のままで前に出たく無い
スターになりたくなかった坂本が

全米ツアー後に有名人となり
それによって一般人にも名前と顔が知られて
街を歩いていても名前を呼ばれる事がストレスとなっていた時期に

世間が望むYMOを強いられる事と
自由な采配で音楽をやれない不満から度々細野と衝突し
険悪なムードになっていた時も
「まあまあ・・・w」と仲を取り持つのが

高橋幸宏の役目でした

「前に出たくない」という意味では高橋も
「サディスティックス」でフュージョン音楽を経験し

派手にテクニックを見せるドラマーに惹かれた体験を通して

音楽はサーカスでは無く
難しい技をプレイする、テクニックを見せ付ける事よりも

ポップ・ミュージックの中でドラマーは
メロディーを聴いて プレイし

ある程度のスキルが身に付いたら誰が聴いても分かる様な
「スタイル」を身に付ける事を目指すのが重要

テクニックを見せ付けてまで前に出る必要は無くても
後方に居ても自分である事が分からなければならないと言う様な

「表現」する事による「責任」を負う覚悟が
音楽を演る上で必要な事だと語り

音楽家としては「天才」でも
まだまだワガママお嬢様だったユーミンを

ミュージシャンとして名を馳せても
社会人としての覚悟が足り無かった若き坂本を

時には叱り時には諭して音楽へと繋ぎ止め

「見た目」「人付き合い」「表現」の一つだと捉え
身なりにも人間関係にも気を使い

ジョージ・ハリスンを理想の音楽家と敬い
「目立たない主役」「目立つ脇役」を目指した高橋幸宏は

自分にとって音楽にとって何が大事なのかを感覚として身に付けて
自分が自分らしくありながら人とのあり方を捉える

「繋がり」を大切にする人物だったと
言う事なのでしょう☆



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​山下達郎 - ディス・クッド・ビー・ザ・ナイト ​(1978)​​​
Tatsuro Yamashita - This Could Be The Night
収録アルバム『GO AHEAD!/Big Wave』

​​​​​坂本龍一の言う所この頃仕事
「アルバイト」だったそうです​​​​​



先程の矢沢が50年ものキャリアを誇る
西を代表するアーティストであるなら

こちらの達郎も50年ものキャリアを誇る
東を代表するアーティストで

洋楽に精通しポップス、ロック、オールディーズを網羅し
ドゥーワップ歌唱に於いては多重録音を駆使し一人アカペラをこなし
世界にも類を見ない唯一無二のサウンドを誇る

日本を代表するシンガー・ソングライター山下達郎

自身の転機となった代表的アルバムからの
ライフワークとして取り組む洋楽カバーから

ハリー・ニルソンの隠れた名曲で
84年の記録映画『ビッグウェイブ』のサントラとしても使用された
達郎作品中でもコアな人気曲です



​山下達郎​

この作品は、当時山下達郎がレコード会社から
ソングライターとしては技術もあり優秀と評価されながら
歌手としては売れないと判断を下されていた時期に

今後は作曲家プロデューサーとして活動しようと
本作を最後のリリースと決めて

時間も予算もきっちり決められただけの中で使い
その代わり好きに作ったアルバムとなった

歌手引退作という経緯で制作されたもので

制作期間内で可能な限り作曲されたオリジナル数曲と
後は人に書いた過去作と本曲のカヴァーという

達郎にとってこれが代表作となるとは思いもよらない中

コンセプトも曲調もサウンドも揃っていない
ある意味バラエティーに富んだラインナップで
レコーディングされました



本曲の演奏は予算の関係からか山下達郎一人で行われ

達郎サウンドの代名詞の「一人多重コーラス」に加え
ドラム、ベース、ギター、ピアノ、コーラスの全てを担当

そのパートの上に坂本龍一のシンセを被せて完成させたという
ほぼ手作りの楽曲となりました

本曲の原曲のプロデュースをしたのは
ビートルズの『レット・イット・ビー』のプロデュースで知られる
音の魔術師の異名を持つフィル・スペクター

重厚なサウンドに巨大空間を思わせる遠鳴りのリバーブが特徴の
「ウォール・オブ・サウンド」が有名のサウンドクリエイターでした

山下達郎は本曲で音圧のある生楽器の演奏に加えて
坂本龍一による当時最先端となるポリムーグシンセによる
綺羅びやかなストリングスサウンドの広がりを得た

自分なりのこだわりで作った「ウォール・オブ・サウンド」を再現しました

Moog Polymoog Synthesizer
Polymoog Synthesizer 
(画像参照: wikimedia)


本曲は後に86年の記録映画『ビッグウェイブ』でボーカルとソロを新録し
『GO AHEAD!』とは若干サウンドが異なったリミックスヴァージョンとして
再リリースされるので

アルバムによってその違いを愉しむことが出来ます


エアーブラシイラストで一世を風靡したペーター佐藤の手による
3日で描いてもらったイラストをジャケットカバーに添えた『GO AHEAD!』は
78年12月20日のクリスマス・シーズンにリリースされ

立っている者は親でも使えと担当ディレクターまでもが演奏に参加して
セールスに繋げる為にやるだけの事はやり尽くした

正に総力を挙げてのアルバム制作となりました


そうして年が明けた春のある日の事、
「大阪のディスコでアルバム収録曲の『BOMBER』がブレイクしている」
という噂が達郎の耳に入り、

元々シングル「LET'S DANCE BABY」のB面だった「BOMBER」を
急遽A面にしたジャケットで再発し
半信半疑でバンドを率いて大阪に向かったのが6月。

関東出身の達郎にとってはかつてシュガーベイブ時代に体験した
「関西の厚い壁」を思い知る
東京に対する反感と言う「洗礼」を受けていただけに

苦手意識のあった関西圏のコンサートでしたが

これまでの客層とは全く異なるオーディエンスで埋め尽くされた
大阪サンケイホールでの意外な盛り上がりでステージは大成功となり

それが転機となって次作の79年発表の『MOON GLOW』
オリコンアルバムチャート20位ランクインの大ヒットを遂げ

それまでサブカルチャー系なコアな音楽ファン御用達の
マニアックな音楽に傾倒するミュージシャンだった山下達郎が

新たなファン層を獲得した事で

メインストリームで時代の空気を感じる音楽を
自ら牽引する事に興味を持つ様になり

それが80年のオリコンアルバムチャート1位に輝く大ヒット作
『RIDE ON TIME』への足がかりとなり現在に至るまで

低予算、短時間、手作業で作られたアルバム『GO AHEAD!』は
達郎の思わぬ 代表作 となるのでした




山下達郎はTVなどに顔出し出演しない事で有名で

例外的に第33回レコード大賞で
『アルチザン』がアルバム部門を受賞した時に
『さよなら夏の日』をマイクに向かって唄う映像を公開した以外

知る限り、奥さんの竹内まりやと結婚した時のTVのニュースで
奥様をどう思われるかというキャスターのインタビュー
「八頭身美人」ノロケて答えていた映像以外

TVでの顔出しは無い事を徹底している事でも
知られておりますが

近年映画館での”シアターライブ”形式での公開や

コロナの影響で配信によるコンサートが増えた時期に
高音質動画配信サービス”MUSIC/SLASH”
ライブ映像での顔出しステージをこなすなど

時代の要求に応じてそのスタンスは代わりつつある様です


山下達郎がなぜその他のアーティストの様に
DVDを出したりTV出演をしたりしないのかという理由は

一つは、「音響」に付いて
地上波TV、DVD、Blu-rayの「圧縮音声」が
納得できるものでは無い事を挙げており

アリーナクラスの会場でコンサートを行わないのも
上記の「音響」が納得できるものでは無くなる事で

高いクオリティーで音楽を届ける事を最優先するポリシーから
それらを行わない理由としている様ですが


「GO AHEAD!」の時にレコード会社上層部から指摘された
「トータルキャラクターとして捉えると数字が取れない」という判断を

「タレント性に欠ける」
おそらくそう捉えた達郎が

他のミュージシャン仲間が音楽活動以外の日常
TVを観たファンに追われ平穏な生活が失われている様を観て

元々向いていないタレント活動で顔出しをしても
TVの影響力はリスキーなだけで自分には得はないと判断し

メディアへの露出はラジオ、雑誌インタービューに留めて
やらない様にしていると思われる所があります


■坂本龍一の誤算となったYMOでの顔出し出演■


坂本龍一が達郎のレコーディングに参加したきっかけは
大学時代に小劇場の音楽を担当した事で

演劇関係の人達と新宿歌舞伎町にある
「新宿ゴールデン街」に出入りする様になり

演劇関係と音楽関係の人脈が広がって行った頃に
共通の友人を通して親しくなった事からと言います


当時坂本龍一は70年代安保を引きずった様な
中央線沿線に集まっていたフォークや元活動家などが混在した

制度の解体資本主義に管理された音楽の開放
人民解放に倣って音楽を労働者に開放させる事を
本気で論議し

「表現」とはある種「闘争」でもあるとしていた
当時のカルチャーにどっぷりと浸かった青春時代を送っていました


YMOでスタイリッシュな出で立ちで世に出たとは思えない
長髪にジーンズで素足に草履という昭和の若者そのものの姿で

演劇の舞台に立ったり、
和製ボブ・ディランと謳われた友部正人と知り合ったりする中で

「演劇」と「音楽」を「シンクロ」させたり
嫌いだったフォークミュージックの知らざる側面に触れ
友部正人の全国ツアーでピアニストとして日本中を旅したりと

音楽が本業という自覚が無いまま音楽が中心の生活を送っていた
そんな頃、

坂本は荻窪のライブハウスで初めて山下達郎と会い
自身が音大で何年もかけて勉強した現代音楽のハーモニーを

洋楽のロックポップスから正確に吸収し既に自分のものとしていて

それらの音楽的知識を共通の言語にして
突っ込んだ話をする事が出来た山下達郎と

すぐに意気投合します


その後山下達郎のレコーディングやライブに参加した後
「はっぽいえんど」のボーカルで山下達郎の師匠とも言える
大瀧詠一を紹介されて

大滝詠一のスタジオで細野晴臣と出会う事になります


坂本は細野が達郎同様にアカデミックな音楽教育無しに
自身が勉強してきた音楽の話も出来る事に驚いて

この二人が傾倒しているロック、ポップスに対しての興味が湧き

先のない西洋音楽を勉強する為音楽大学に入学し
時には美術学生を率いてデモのリーダーとして闘争に参加し
学生結婚して子供が出来て
結婚生活は上手く行かずに直ぐに破綻し
その責任から音楽を本業にして稼ぐ為に働き

音楽が本業という自覚の無いまま
音楽で稼ぐ事に明け暮れてきた

無軌道で目的の無いこれまでの生活の事を思えば

やり甲斐があるものを見つけた事を確信した
これらは全て人生の転機となる出会いだったと言えます



山下達郎はインタビューの中で

60年代安保は物書きを輩出し、
70代安保はミュージシャンを輩出した

と語った事がありました

当時は山下達郎と同年代ミュージシャンが大勢居て
その中には

坂本龍一が青山のデモの参加で車をひっくり返していた頃
同じ青山でダンスパーティーに参加していた

山下達郎、坂本龍一とは全く異なる青春時代を送っていた
高橋幸宏 が居ました


高橋幸宏は坂本龍一が知る
中央線沿線のヒッピー族のコミューンとは全く異なる

アールデコ調の屋敷に住みKENZOのファッションで身を包み
ファッショナブルな出で立ちでドラムを叩く

達郎、細野とは異なる
「別の人種がロックを演っている驚き」があったと言います


時代は70年代半ばとなり、
メンズビギが登場し様々なファッションブランドが立ち上がり
カフェバーにはファッショナブルな大人達が立ち寄り
経済が高度成長期を迎える新たな時代を迎える中にあり

大島渚監督の『日本の夜と霧』に出てくる様な
白いワイシャツに黒ズボンを履いて難しい議論をし
学生がバンカラでデモ闘争していた時代は

過ぎ去ろうとしていました。


1978年2月には細野宅で「テクノバンドの構想」を細野から提案される
伝説の「こたつ集会」が行われ

当時尖っていた坂本は「時間があったらやりますよ」と
わざと飛びつかずやぶさかでないという態度で答え
高橋幸宏はその場でやりましょうと二つ返事をして

YMOが結成される事になります


そうして制作された
フランスの監督ジャン・リュック・ゴダールの映画のタイトルを
楽曲のタイトルにして並べた最初のアルバム
「イエローマジックオーケストラ」では

坂本が「東風」を高橋が「中国女」を細野が「マッドピエロ」を選び
各々が作った楽曲を持ち寄って皆でレコーディングして行きます

「中国女」のフランス語パートは
当時のアルファレコードの秘書の女性に頼み
ボーカルパートは細野のアイデアで高橋が担当しようという事になり

YMOリードボーカル高橋ユキヒロが誕生します

高橋幸宏は音程があるのかないのか分からない様な唱法で唄い
それを更にエフェクターで加工して仕上げる

「フー・マンチュー唱法」と呼ばれる独特の唄い方を
YMOのレコーディングで行っていますが

これには「メンバー」が「バンド」の顔となって
全員が「スター」となるのが通例な所を

メンバーの素顔が見えない様にする「匿名性」をYMOに導入して
「ミステリアス」をトレンド化させるという

細野の考えからでもある様でした

それは「無名でいたい前に出たくない」坂本の考えを
体現したものでもあった訳で

この「何者が演奏しているのか分からない」
がコンセプトのテクノバンドは

思惑通り日本では謎のバンドとしてデビューを飾り
メンバーをプッシュしなかった事で
セールスも振るいませんでした

しかしアメリカ公演以降状況は急転し
凱旋帰国後YMO人気が国内で高まり

YMOの三人は時の人となって行きます


やがてTVやラジオ雑誌などでのメディアの露出が増え
タレント活動も仕事の一部になるに連れて

バンカラで出歩き一般人に紛れて普通に生活して来た坂本も

家を出た所で指を差されて名前を呼ばれるまでに
日本中に顔を知られる程の有名人となり

どこに行っても名前を呼ばれ
誰もが自分の顔を知っているという状況から

もはや普通の生活が出来なくなった坂本はそのストレスから
何ヶ月も部屋に引きこもる生活を続ける事になります

そうして普通の生活が失われた事への憎悪が
坂本の中で次第に高まって

それがYMOへの憎悪に結び付いて行きます

生活が激変してストレスに晒されたのは
細野も高橋も同様でしたが

坂本の毒が細野にあてられ高橋がなだめるという図式で
YMOの仲は険悪なムードになって行きます

最もメンバーが荒れていた時期に制作されたとされる『BGM』
人気が落ちる事を目論んでワザとマニアックな楽曲を並べたと言われており

それが乗じてその時期の活動は『スネークマンショー』を始めとする
当時はYMOらしいと思われた人気絶頂期にYMOが笑いのネタになる様な

ある意味「悪フザケ」が活動の「コンセプト」となって行きます

この時期にYMOを陥れる様な様々な「企画」が立ち上がったのは
その様な背景があっての事でした




1980年4月に行われた「スネークマンショーin武道館」
そんなYMOの思惑を知らない招待客の前で
YMOがフォークソングを唄いスネークマンが延々とコントを演り

最後の最後にYMOがカーテン裏に隠れたバンドセットを出して
演奏を演るという趣向の

客をからかう事が目的のステージとなりました

主旨を分かっていない客の一部は
いつまで経ってもYMOの演奏が始まらない事に本当に怒り出し
女装して出てきた坂本が本気かネタか分からない様なテンションで
客に怒鳴り返すやり取りに場内はざわつき
呆れて帰り出す者も居たと言います

その時期世間が求めていた「期待」を裏切り
全て「破壊」してしまおうとしたこれらの行為は

折しも漫才ブームが加熱して
「どつき漫才」がお茶の間に浸透していた時期と重なっていた事から

その様な「表現」に繋がった事で
逆に世間に評価される事になります

結果としてYMOの過激なコメディー化は「企画」として
世間一般に受け入れられる事になりますが

それ位危ない橋を渡る様な突き抜けた事をしないと
忙しさで息もできない程のストレスを抱えていた事を
物語っていました


それは先程のピンクレディーの「ラストプリテンダー」の例の様に
そんな悪フザケな「コンセプト」がYMOの新たなカラーに加わり
世間がその様なノリを望んでいると捉えて

「解散」を匂わせる過激ワードの楽曲で
話題を提供しようと努めた事で

それが相手のデリケートな所を「逆撫で」してしまう
「シャレが通じない」ケースを生み出す事にもなりました


そんな、
意図せず人気絶頂期となったYMOの不満の火の粉
思わぬ人気が下降し始めた周りが被るという図式に

図らずも
当時の日本の音楽界での浮き沈みの顛末を見るものがあり

それまで歌手をレコード会社の商品として使い倒してきた「歌謡界」
荒井由実、山下達郎、矢沢永吉、桑田佳祐、タケカワユキヒデ、加藤和彦、


70年安保組が次々と音楽界に参入した事で

かつて制度の解体と資本主義的音楽の開放を目指した気概
歌謡界に「闘争」を仕掛ける様な表現で音楽界を席巻して行き

確実に何かが終わり何かが始まろうとしていた
85年の『ALL TOGETHER NOW』までに至る

昭和の音楽界に「引導」を渡す 終わりの始まりを見るものが
YMOの活動の中に投影されていたのでは無いかと考えると

「YMO」とは知られざる当時の日本の音楽界の
「鏡」の様な存在だったと言えるものがあったのかも

しれません



山下達郎はこれまでこの様な
知人友人達の「有名税」で支払われる
ストレスに晒されるという「リスク」

嫌という程目の当たりにして来ただけに

メディアへの露出をラジオ雑誌のみに控えて
純粋に音楽制作に集中できる生活を維持して

音楽に政治を持ち込まず
坂本龍一のリベラルな申し出もハッキリと断って
それで関係が崩れる事も無い友情を大事にし

映像作品やTV出演をしないのでは無いかと
思うのでした☆

△▼ △▼ △▼

という所で今回は終了です
御観覧ありがとうございました


YMOTakahashi2008(cropped)
​高橋幸宏​
1952 - 2023

Ryuichi Sakamoto side
​坂本龍一​
​1952 - 2023​



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最終更新日  2023年04月17日 09時33分07秒
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