久しぶりの更新です。
次男、ちびすけが年少のビーバー隊からカブ隊へ上進(進級)しました。
これから向こう3年間、青い制服です。
今日は朝から電車に乗って、盛岡から沿岸釜石市まで行きました。
快速列車で片道2時間20分の小旅行となりました。
本日の目的は「災害について考えよう」
被災した釜石の団の案内で駅前から避難経路を歩き、
高台の避難場所までを辿ってみます。
震災後、初めてこの夏沿岸に行きました。
盛岡から真東の宮古市へ行き、南下して釜石市も車で通りましたが、
実際に下りて歩いたわけではありません。
その時は季節も夏だったので、荒地に草がぼうぼう生えている光景が広がっていました。
損壊した建物もそのままで痛ましく眺めたのでした。
駅の近くの川はとても水が綺麗で、底の石もすっかり見えるほど。
川を上ってくる鮭がまだいました。
あんなことがあった後でも自然の営みは変らない。
こんな綺麗な川だけど、震災の時はここを津波が上ってきました。
川を上ってきた津波の色は“白かった”そうです。
波の先端が砕け散って白く泡立っていたのです。
それを見てただごとではないと、声を掛け合いすぐさま高台に避難したそうですが、
本格的な津波が押し寄せるまで時間があったため、
すぐ近くの自宅に防寒着などを取りに戻った方々もいたようで、
残念ながらそのような方は、戻って来れなかったのでした。
沿岸では「津波てんでんこ」という言葉があります。
これは「何にも構わないでいいから、とにかく逃げろ」という意味です。
津波の被害を被っている先代からの教訓です。
また、このあたりは1m前後地盤沈下しているそうです。
なので大潮の時は冠水して歩けなくなる区域があちこちあるようで、
看板が立っています。
ここの側溝はしばしば海水が流れ込み、溢れ出ているので、
コケが生えていました。
駅前の商店街もガレキが片付けられただけで、まだ整備が進んでいません。
震災後、まずやったのは道路を通行できるように片付けることだったと
当時の写真を見せながら、釜石の団の指導者が話をしてくれました。
珍しい重機。
土中の基礎などを砕いて取り除くためのもの。
先はペンチのような形をしています。
商店街がこちらのプレハブに集団移転していました。
背後はお寺とお墓。
すぐに山が迫っていて、平地が少ない印象です。
リアス式海岸の特徴でもあるのですが、新たな建設地を見つけるのに
苦労しているのは容易に想像できます。
青い看板が津波の高さを示しています。
仮設住宅。
これからいよいよ寒い冬がやってきます。
2度めの冬です。
火が怖いので、エアコンに頼る生活をしている方も多いようで、
それも不便を強いられています。
損壊して危険な建物には×のマークがついています。
このような建物が至るところに撤去もされず、手付かずになっています。
この階段を上った先の高台が避難場所です。
かなりの階段数。
若い人ならともかく、体の不自由な方やお年寄りはさぞかし大変だったことでしょう。
そういうと、そのような方は皆で協力して、おぶってこの階段を上ったのだとか。
避難場所の高台からの眺め
建物がなくなり、広々として見えます。
この写真を撮ったのは、12:30
今日は小潮から大潮に移る中日くらいですが、
潮目表をみるとこの日の満潮はちょうど12:50頃で潮位は130cm
数日後の大潮は155cmまで上がるというのですが、
すでに岸壁は海水に覆われていました。
それくらい地盤沈下しているということです。
これを解消しないと、何も上に建てられない、造れないといいますが、
生半可なことではないでしょう。
復興工事やボランティアの方々が泊まる施設が不足しているので、
ホテルを建設していましたが、1m程度の盛土をした上に建てていました。
一通り見て周り駅前に戻りました。
最後に亡くなった方々に思いを馳せて、“復興の鐘”を突きました。