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カテゴリ:夏目漱石
僕の住んでいる今治市に加計学園・岡山理科大獣医学部が誕生したのは、今年のことです。ここの食堂は、一般の人も参加できるので、何度か行ったことがあります。定食が500円で、時には学生よりも一般の人が多いこともありました。もし、今治に来ることがありましたら、土産話に、ぜひご来訪ください。 その加計学園は、漱石の友達である加計正文は加計家22代であり、正文の三男・勉の手で築かれたのが加計学園グループということになります。 加計正文は広島の豪農出身で、鈴木三重吉の同郷の友人であり、東京大学英文科に進んでいました。漱石と正文は三重吉の仲立ちで知り合ったのでした。漱石の声を蓄音機に吹き込んだのも加計正文ですが、残念ながら録音した蝋がカビまみれになり、再生は不可能だったそうです。 ※漱石と蓄音機はこちら 加計正文は、『それから』に登場する主人公・代助の友人のモデルになっています。田舎の家に帰り町長となった友人は、次第に田舎の暮らしの中に埋没し、冒険をしない男に変わっていたのでした。 漱石は家計正文に、明治41年10月20日、「その後は僕も大変な御無沙汰をした。何の如く千駄木から西片町へ移り、西片町からここへ変って、小供はもう五人ある。その上、この暮か来春早々また一人生れる。鬢の所に白髪が大分生える。顔も頗る年寄りになったろうと思う。君も細君を持って小供が出来る由で御目出度。君の弟が東京で三重吉と一所にいたそうだが、つい一返も逢わずに仕舞った。昨今は米国艦隊の何とかで市中は大騒ぎ。と言ったところで、ただ旗を立てて、幕を張る頗る銭の入らない驩迎である。安っぽくて騒々しいのは日本人の特色である。三重吉が教頭になって昨今威儀を正しているそうだが、頗る気の毒の至だと考得られる。威厳三百だとかいって威儀をつくろうのも容易の業ではない。近々成田へ行って慰問しようと思っている。君の家ではもう炬燵を用いるそうだ。東京は袷、フラネル、乃至綿入、中にはまだ単衣の絣で間に合せているものもある。大変融通の利く好時節である。先達て家の猫が死んで裏に御墓が出来た。二三日前に三十五日が来て仏前へ鮭一切れ、鰹節飯一椀をそなえた。鮎の干したのを頂戴。いくらでも食べるものが沢山居る。あれは水へ漬けて半日許グヅグヅ煮るべきものと思う。如何」と鮎を催促しています。 10月27日には「鮎到着致候難有候。柿もその内到着の事と慾張居候。三重吉は生徒を引率、鎌倉地方へ旅行の由。上野に文部省の展覧会有之、大部分はまずさ比(くらべ)の展覧会に候。加計町の景色を見て巨燵にあたっている方が人生の意義にかない居候。二三日前、箪笥の上にサンマの焼いたのがのっていたから何うしたのかと聞いたら猫の供物だと申候。第三女が百日咳から腸チフスになり、昨今漸く快方に赴き候。熱の高い時は、日に氷五十斤を要すと聞いて大に驚き、一斤いくらかと尋ねたら二銭だというんで漸く安心せり。然し五人の小供がないと、今頃は倉の一とまい位持てると思う事なきにあらず。『三四郎』出版の節は一本を献上仕る覚悟に候」と、鮎のお礼を述べ、柿はまだ来ないと到着を楽しみにしています。『それから』にも「友人は時々鮎の乾したのや、柿の乾したのを送ってくれた」とあり、正文がモデルだったことを裏付けています。 翌日代助は但馬にいる友人から長い手紙を受取った。この友人は学校を卒業すると、すぐ国へ帰ったぎり、今日までついぞ東京へ出たことのない男であった。当人は無論山の中で暮す気はなかったんだが、親の命令で已むを得ず、故郷に封じ込められてしまったのである。それでも一年ばかりの間は、もう一返親父を説き付けて、東京へ出る出るといって、うるさい程手紙を寄こしたが、この頃は漸く断念したと見えて、大した不平がましい訴えもしない様になった。家は所の旧家で、先祖から持ち伝えた山林を年々伐きり出すのが、重な用事になっているよしであった。今度の手紙には、彼の日常生活の模様が委しく書いてあった。それから、一カ月前町長に挙げられて、年俸を三百円頂戴する身分になったことを、面白半分、殊更に真面目な句調で吹聴して来た。卒業してすぐ中学の教師になっても、この三倍は貰えると、自分と他の友人との比較がしてあった。 この友人は国へ帰ってから、約一年ばかりして、京都在のある財産家から嫁を貰った。それは無論親の云い付であった。すると、少時して、直ぐ子供が生れた。女房のことは貰った時より外に何もいって来ないが、子供の生長ちには興味があると見えて、時々代助が可笑しくなる様な報知をした。代助はそれを読むたびに、この子供に対して、満足しつつある友人の生活を想像した。そうして、この子供の為に、彼の細君に対する感想が、貰った当時に比べて、どの位変化したかを疑った。 友人は時々鮎の乾したのや、柿の乾したのを送ってくれた。代助はその返礼に大概は新らしい西洋の文学書を遣った。するとその返事には、それを面白く読んだ証拠になる様な批評がきっとあった。けれども、それが長くは続かなかった。仕舞には受取ったという礼状さえ寄こさなかった。此方からわざわざ問い合せると、書物は難有く頂戴した。読んでから礼をいおうと思って、つい遅くなった。実はまだ読まない。白状すると、読む閑がないというより、読む気がしないのである。もう一層露骨にいえば、読んでも解らなくなったのである。という返事が来た。代助はそれから書物を廃めて、その代りに新らしい玩具を買って送ることにした。 代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向を有っていたこの旧友が、当時とはまるで反対の思想と行動とに支配されて、生活の音色を出しているという事実を、切に感じた。そうして、命の絃いとの震動から出る二人の響を審らかに比較した。 彼は理論家(セオリスト)として、友人の結婚を肯がった。山の中に住んで、樹や谷を相手にしているものは、親の取り極めた通りの妻を迎えて、安全な結果を得るのが自然の通則と心得たからである。彼は同じ論法で、あらゆる意味の結婚が、都会人士には、不幸を持ち来きたすものと断定した。その原因をいえば、都会は人間の展覧会に過ぎないからであった。彼はこの前提からこの結論に達するためにこういう径路を辿った。(それから 11)
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最終更新日
2018.10.06 08:14:13
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