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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.04.19
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カテゴリ:夏目漱石
 
   あつきものむかし大坂夏御陣  漱石(明治29)
 
 明治40(1907)年の春、漱石は関西にいました。この年の2月に朝日新聞に入社する話が動き始め、3月25日に漱石は東京帝国大学への退職願を書きました。漱石は、友人の狩野亨吉の住む京都に遊びに行きたいと考えていて、前年10月23日の亨吉宛の手紙には「京都はいい所に違いない。ことに今頃松茸などを連想すると、行きたくてたまらない。君のことだからよく散歩をするだろうと思う。それから絵や古書や骨董などもあるだろう。一体がユッタリして感じがいいだろう。そんな点では東京と正反対だろう。僕も東京へ行きたい。行きたいが、これは大学の先生になって行きたいのではない。遊びに行きたいのである」と書いています。
 3月28日、午前8時の神戸行き最急行に乗って、午後7時30分に漱石は京都駅に着きました。下鴨神社の近くの「糺ノ森(ただすのもり)」に亨吉の借家があり、そこを拠点に4月9日まで京都の観光地を巡り、観光地の印象を日記に書きつけています。
 4月1日、東京朝日新聞の社告に「近々、我国文学上の一明星がその本来の軌道を廻転し来たりて、いよいよ本社の分野の宿り候ことと相成居り候」と予告し、翌日に「新入社は夏目漱石君に候、かの人が如何なる文学者にて如何なる才藻詞品を有し候やは、本社がこれを知るより以前に、疾く御承知のかたもあるべく、またなおご存知なき方は最早やがて紙上にてお知合いとなられ候」と、発表されました。
 
 4月4日、東と西の本願寺を訪ねた漱石は、七条停留所から梅田停留所に向かい、大阪朝日新聞社主の村山龍平に面会。堂島の大阪ホテルで催された晩餐会に出席し、高麗橋詰の星野旅館に泊まります。翌日の朝には京都に帰り、伏見方面に出かけています。4月4日の日記には「大阪着、中之島散歩。朝日新聞に赴く。社主村山氏に逢う。(洋画家の)小山(正太郎)氏にも逢う。ホテル晩餐会に臨む、会するもの十二、三名なり。夜高麗橋際星野方に宿す」、5日には「宿の神さんの話を昨夜(朝日新聞主筆)鳥居(素川)氏よりきく。朝、京都の地面が買えるなら教えてくれという。勘定は御序ででよいという。古雅なり。桑名の人という。盆に蕪穂をつけたり。大坂は気象雄大なり」と書いています。
 
 大阪ホテルは、明治元(1868)年に草野丈吉が梅本町に開いた洋食屋を前身とし、明治3(1870)年に「欧風亭ホテル」を開業し、翌年に「自由亭ホテル」を建設します。そして、明治14(1881)年に中之島で「自由亭ホテル」を新築開業し、明治17年には自由亭の東隣にあった温泉場と清華楼を購入して規模を拡大します。しかし、明治19年に丈吉が没すると、丈吉の長女・草野錦が志を引き継ぎ、洗心館(もと清華楼)を改築して洋風の建物とし、明治28年に改称して「大阪ホテル東店」とし、翌年には西店を開きます。明治32年には、大阪倶楽部に売却され、「大阪倶楽部ホテル」となりますが、明治34年に火災で全館焼失してしまいました。
 翌年に大阪ホテル株式会社が組織され、翌々年に洋室客室30室の「大阪ホテル新館」が完成しました。明治36年には、第5回内国勧業博覧会が大阪で開催され、その集客を目論みましたが経営は向上せず、支配人を務めていた大塚卯三郎の所有となり、大正元年(1912)年には尼野源ニ郎に経営が移り、新しい会社組織の大阪ホテルが誕生しました。
 大正13(1924)年には再びの出火で全焼、中之島のホテル敷地は公園地となっていたので再建許可が受けられず、現在、その跡地には、大阪市立東洋陶磁美術館が建っています。そこで、支店の「今橋ホテル」を「大阪ホテル」と改称して営業を続けましたが、昭和16年、戦争激化のために建物を売却。ホテルは廃業となりました。しかし、食堂部だけは中之島の中央公会堂の地下で、平成10(1998)年まで営業していました。現在の中央公会堂の地下には、大阪ホテルの流れを汲んだレストラン「中之島倶楽部」があり、往時の人気メニュー「オムライス」を提供しています。
 

 
 草野丈吉は、天保11(1840)年に長崎の農家に生まれ、長崎出島のオランダ商館で皿洗いをしていましたが、厨房での手際のよさが見込まれ、コック見習いとなり、やがてオランダ公使のデ・ウィットの料理人となります。オランダ船に乗り込んで海外をまわり、各国の西洋料理を身につけました。デ・ウィットがオランダに帰国したのち、丈吉は洗濯屋になっていたのですが、丈吉の料理の腕前を聞きつけた薩摩藩士・五代才助の勧めによって、文久3(1863)年、長崎で本邦初の西洋料理店「良林亭」を開きます。
 この「良林亭」は、慶応元(1865)年(慶応3年説あり)に来店した佐賀藩士・佐野常民のアドバイスで「自由亭」と名前を変えました。この店の贔屓となるのが土佐藩士・後藤象二郎で、そのため、丈吉の店は海外要人の接応用に利用されるようになります。明治2(1869)年の天長節には、イギリスやフランス、アメリカなどの五ヵ国領事や日本政府高官が列席する祝宴の料理を担当して好評を博すなど、その手腕を遺憾なく発揮しました。
 丈吉は、後藤象二郎の後援によって大阪に進出します。明治元(1868)年、大阪に川口波止場が開港され、その川口には外国人のための宿の建設が計画されていました。その開発計画に、丈吉が指名されたのでした。川口の開発がひと段落つくと、丈吉は旧土佐藩主・山内容堂の後押しで明治3(1870)年、川口与力町に「欧風亭ホテル」を開業します。このホテルは大いに繁盛し、翌年には梅本町に移転して「自由亭ホテル」と改称しました。明治14(1881)年に中之島に移転したホテルは、洋式と和式の二棟からなり、大阪を代表するホテル、西洋料理店としての評価を高めました。
 しかし、事業の拡大を図る丈吉でしたが、精力的過ぎる活動が祟ったのか、明治19(1886)年に47歳という若さで鬼籍に入りました。
 
 明治43年発行の『無資奮闘成功家実歴、最新実業家立志編』には、大阪ホテルの経営者であった大塚卯三郎のことを「君今や大阪ホテルの経営者たり、現時の大阪ホテルは、かつて君がその株式会社たりし時において支配人として計画したるものに属し。当時、大阪ホテルが第五回博覧会に対して貢献したる所、は世人の今なお記憶に存すべし、宣(むべ)なり。『東京二六新聞』は、特にその画報中に君を紹介して、君が第五回博覧会の開設に際し、大阪ホテルを中心として、外客の接待迎送のために努め、各国公使領事等に満足を与えたる功労を顕揚せることや、それホテルの業は、世界における商業中もっとも至難至かんなるもののひとつなり、外人に遺憾なき満足を与えんと欲するも、顧みて経営維持の上に及ぼし、その意志の十分の一をも発する能はず、ことに算盤上の経営はさらに困難ならざるべからざる事情あり。ここにおいてか、さきに大阪ホテルはその維持難を訴え、営業を中止するの窮状におちいるや、大阪市は都市の体面上一ホテル無かるべからずとし、これを市に買収し、広く外国新聞にまで広告して、その経営者を求めしにもかかわらず応ずるもの大塚氏の他に一人ありしにすぎざりしなり。しかして両人競争の結果は大塚氏のいうに帰せり、大阪における「大阪日報」は、この時君を大阪百人物中の一人にかぞえ、君の奮闘的性格は必ずや将来わが国ホテル業の革新を促すべきじとを論じたり」と記しています。





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最終更新日  2019.04.19 19:00:07
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Re:漱石と大阪ホテルの草野丈吉(04/19)   高田宏 さん
はじめまして。
大学で大阪のホテル史を研究しています。
当ブログ記事でお伺いしたいことがあります。
ご連絡をしたいのですが、どうすればいいでしょうか。
よろしくお願いいたします。

*投稿がダブっていましたらお詫びいたします (2023.09.19 16:15:35)


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