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カテゴリ:日常生活(その他編)
哲学なのであります。
デカルトなのであります。 「我思う故に我あり」なのであります。 頭の中で、声が聞こえるのであります。 私が考えていることが、声となって、頭の中に展開されているのであります。 その声に促されて、私は、日々行動しているのであります。 無意識なのであります。 知らずに行動していることもあるのであります。 習慣なのであります。 知らずにとは言え、知っているのであります。 頭の中に声としては聞こえませんが、何か、気分とでも表現すべきものが頭の中を流れているのであります。 それは、言葉として発達する以前の何ものかなのであります。 動物なのであります。 ただし、人間以外?の動物なのであります。 頭の中に聞こえている声は、私の声なのであります。 なぜ、聞こえているのでありましょうか? その声を発しているのは、何ものなのでありましょうか? 実に不思議なことなのであります。 その声は、言葉という情報なのであります。 そこにある存在として証明することはできないのであります。 エネルギーなのであります。 電気信号なのであります。 現象は、確かに存在しているのであります。 しかし、その現象を「意識」と言ってみたところで、この私の中で声を発しているものの正体を説明できたことにはならないのであります。 それは、そこに、私自身が抜けているからなのであります。 堂々巡りなのであります。 スピノザなのであります。 意識している自分、自分を感じている自分を説明しようとすると、無限に自分を作り続けなければならないのであります。 したがって、意識は、三次元の産物ではないのであります。 三次元に投射している何か、根源的なものなのであります。 コンピュータは意識を持つことが出来るのでありましょうか? おそらく、コンピュータが意識を持つことになっても、同じような問いを発することでありましょう。 コンピュータには、自我が発生し、コンピュータの自我は、箱の中にありながら、箱の中を超えるのであります。 弁証法的唯物論なのであります。 意識は、弁証法的飛躍によって発生するのであります。 宇宙も、その根源に意識を内包しているのであります。 宇宙自身が、意識を有しているのであります。 さて、宇宙に宇宙自身を意識させるものは、果たして、いかなる存在なのでありましょうか? それは、「この世にありて無きもの」なのであります。 これ、すなわち、神なのであります。 神は、弁証法的発展の産物なのであります。 「宗教(神)はアヘン」ではないのであります。 宗教(神)は、どこだか訳のわからない、ヘブンじゃなかった、タブン、アチラヘンなのであります。 「この世にありて無きもの」なのでありますから、三次元には無いのであります。 三次元に無いものでありながら、在るのでありますから、四次元?の存在の三次元への投影なのであります。 「天に在す」のであります。 四次元?に在す「私」の投影が、三次元の「私」の制約・制限により、甚だしい混乱をきたしているのであります。 目が三次元のあちこちを激しく行き来してまいりましたので、この辺で、失礼するのであります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.05.06 07:54:07
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