ぼくのなかのまだこわれてない部分
歳と時のことを頻繁に気にかけている。時間のなかで何かが変わっていくのを常として、私の中の変わらない部分を探りながら見つめている。なぜこんなにも弱く、細くなっていってしまうのだろう。何が正解かわからない世界で、誤りのない私を探し続ける。テレビをつけたら、たまたま『君のすい臓をたべたい』をやっている。言い方を選ばず言えば、私は脱ぐまでに200ページかかるような本や、空想の設定のなかで男女が浮き立つだけの本を好まない。だからきっと、この映画の原作も私はつまらなく読むと思う。本どころか、映画も見ながらになんて脆い話なのだろうと感じる。けれども、時たま目の裏で涙が回ったり、胸の辺りが重くなったりする。絶対になかったと考えることに、また何かが壊れた寂寥感が運ばれてくる。同調性が高いらしい。人の感情は聖人だって囚人だって等しく何かを理解する。なのに、たった自分のことさえ、二十五年見てきた自分でさえ、こんな些細なことへの心情変化も掴めない。私が世界とうまくいかない理由は、きっとここにある。こわれた部分が埋まることも再構築されることも、わからない。いつかたまりにたまって崩壊が訪れるのかもしれない。こわれるという感覚自体、いつか遠のいていくのかもしれない。メロドラマを眺めながらこんなことを考える私を、私は遠く、深淵に、闇の向こうまで、押しのけたく思う。