美輪明宏さんの語りの続き:お母さんは絶世の美女!しかし2歳の時逝ってしまう。
1935年(昭和10年)長崎に生まれた。幼い頃はまだ戦争の影はなくロシアケーキや中国のお餅など上海から送られてくる品々があふれていた。長崎市民にとって上海は「げた履きで行ける外国」だった。実家は丸山遊郭と呼ばれた花街近くで料亭やカフェーなどをやっていた。母は大阪の病院の看護婦長をしていて、神戸の酒屋に養子に出ていた父と出会い、駆け落ちし、父の故郷長崎に行き、国際博覧会の集客を当て込んで商売を始めた。看護婦からカフェーのマダムになったお母さんは型破りな人。しかし!母は32歳で他界、私は2歳。「お母さんは絶世の美女、あんたもよく似ている」と周りから言われる。名画 絶世の美女 [ 平松洋 ]価格:1,836円(税込、送料込)2番目の母も立派でやさしい人。自分が生んだ子より私や兄をかわいがってくれた。上海のドレメ学院を出たので、洋裁や和裁が得意。しゃれたカフスのシャツやワンピースをを手作り。戦時色が強まり始めた1942年の頃、黄色のワンピースを着て、ターバンを頭に巻き、弟の乳母車を押していた母は、突然警察に連行された。 その母も9歳の時、病気で亡くなる。美輪さんは子供の頃から本当に辛い思いを抱えながら生きてこられた方だったことを知りました。美輪さんの語り続き生まれ育った繁華街は長崎・丸山花街の入り口。隣が劇場の「南座」前は楽器屋さん。2軒隣りは美術骨董屋さん。江戸時代、丸山は江戸の吉原、京都の島原と並ぶ3大花街のひとつ。遊女たちは唐人・出島・オランダ屋敷への出入りが許された。1930年代は映画の黄金時代。4歳の頃田中絹代と高田浩吉主演の「春琴抄 お琴と佐助」を見て最後のカットはいらない(?筆者)なんて考えた。骨董屋さんには狩野探幽の掛け軸があったり、カフェーには竹久夢二や高畠華宵の美しいポスターが何気なく貼られていた。良い時代に生まれ育った。戦前戦中戦後の文化を比較することが出来た。文字を教えてくれたのは実家のカフェーで働く人たち。いわくありげなインテリが多かった。小学校低学年で志賀直哉の「暗夜行路」を音読。拍手喝采でご褒美にお汁粉をごちそうになる。日本人だけでなくロシア人、中国人、朝鮮人、ハーフの方、皆仲良く働いていた。のちに三島由紀夫さんから「君は九州の田舎者なのに、卑屈なところがないのはなぜだい」と聞かれた。私「何言ってるんですか。東京にぺんぺん草が生えていた頃長崎は国際都市。平賀源内をはじめ多くの人が勉強しに来たんですからね。」水商売の環境で3歳から大人扱いされて育ち、大人のスキャンダルや秘め事が耳に入ってきた。農村から連れられて来た娘がお母さんと泣き別れをする、出入の呉服屋と逃げた舞子さんが捕まってひどい仕打ちに遭うそんな修羅場を見ている。カフェに来るお客さんの酔態を見て、昼と夜の顔の違いも解る。世の中には貧富の差があり、裏と表があり、笑う者泣く者。見えるものを見ない、見えないものを見る、、、。こちらもよろしくマダムと女房/春琴抄 お琴と佐助 【DVD】価格:2,540円(税込、送料別)漆絵 狩野探幽の名作「松に鷹図」部分価格:48,600円(税込、送料込)<竹久夢二>色紙 「早春」【竹久夢二 グッズ 色紙 インテリア】価格:1,500円(税込、送料別)