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2021.02.09
全108件 (108件中 1-10件目) ブッダ達の心理学1.0
カテゴリ:ブッダ達の心理学1.0
稀有なスタイルを持った著述家・玉川信明が逝って数年が経過した。あらためて振り返ってみると、ユニークなOsho本4冊を残した著者らしく、この親鸞本も<正統>派から見れば、<異説>ということになるのだろう。しかしまた、他力本願の親鸞においての<正統><異説>とは一体何か、ということになるが、ここであえて自ら<異説>と名乗ることによって、著者は自らに自由を与えようとしている。 その<自由>さは、さらに拡大し、親鸞の宗教観に対する自らを考えを補強する形で、「インドの和尚への架空インタビュー」という途方もない手法を編み出す。これが実にユニークというべきか、暴挙というべきか、まるで高橋信次の霊界通信のような言葉づかいになっていることに、大いに笑える。
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2009.03.26 19:56:41
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2009.03.14
カテゴリ:ブッダ達の心理学1.0
「意識は科学で解き明かせるか」という命題について、拙速的に即答すれば、それは「できない」という答えにならざるを得ない。それはこの本のもととなった対談が行われ1998年だろうが、この本が出版された2000年だろうが、あるいは、当ブログがようやくページをめくっている2009年であろうと、変わりがない。それはまだ時期が熟していないからか、あるいは、そもそもこの命題に限界があるのか。
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2009.03.26 19:58:05
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2007.09.10
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2009.02.02 22:59:16
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2007.09.05
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![]() 「ブリージング・セラピー」 もっとも簡単な、自己変革のツール「意識的呼吸」 マイケル・スカイ (著), 高橋 裕子 1993/05 ヴォイス ★☆☆☆☆ ケン・ウィルバーは、スタニラフ・グロフを「スタン」と呼ぶほど、親しい存在として認めている。グロフは、ブレス・セラピーについての第一人者のように評価されているが、その実力のほどは現在のところを私には不明だ。 ただ、この本の著者マイケル・スカイが「リバーシング」(再誕生)とその呼吸法を呼んでいた時代から、私もその体験をしたし、セラピストとして、そのセッションの中にいた。名前がブリージングやブレス・セラピー、ホロトロピック・ワークなどと変化したとしても、いわゆる過呼吸に際しておこる何事かの一連の体験ということになる。 西洋医学の学者たちは、これらの変化(特にあまり心地よくない変化のほう)を観察して、全部ひとからげに「過喚気症候群」あるいは「過呼吸症候群」のレッテルを貼り、過度に速い呼吸や継続した呼吸は酸素と二酸化炭素の交換過程を狂わせ、そのため障害がひき起こされるのだ、と説明してきました。標準的な「治療法」は、状態がおさまるまで(しばしば頭に袋をかぶせることによって)患者の酸素摂取量を削減するというものでした。もちろんそこには、過呼吸が危険とは言わないまでも、健康的な行為ではないという考え方が含まれています。 過喚起症候群が、特に大きなストレスにさらされている者によく見られる、という事実を学者たちはまだ説明できていません。また、過呼吸の利点もまったく無視されてきました。円環呼吸の長年の実践者たちは、深いとぎれることのない呼吸をある程度の時間つづけると、否定的な収縮体験もやがて大いなる喜びに道を譲る、と報告しています。 過呼吸はけっしてネガティブな症候群ではなく、むしろポジティブな解決をもたらすもの、生涯つづいてきた低呼吸の治療なのです。意図的に行えば、過呼吸は心身を膨大なエネルギーで満たし、収縮したエネルギーを協力に解き放ち、浄化するでしょう。p104 たしかピカチュウを暗い部屋でテレビの至近距離でみていた幼児たちが、過呼吸を起こして話題になったのは、何年前のことだったろうか。あの時が日本においては「過呼吸」という単語が一般化した最初だった、と認識している。 ピカチュウと過呼吸にどのような関連があるか不明だが、もしテレビの映像になにかがあるとすれば、例えば「 マトリックス レボリューションズ 」をみていた時、ああ、これは、見ていて過呼吸をおこす人もいるのだろうなあ、と思った。あるいはそのようなつくりを意図的にしているのだろうな、と思った。 瞑想法や呼吸法、あるいはLSDやらブレス・セラピーなど、一つの技法ばかりを貴しと崇めるのは私のやり方ではないし、また、VOICE社の本には毎度辛い点数になってしまうこのブログではあるが、まともにこのようなブレスを一冊にまとめていることには敬意を表する。
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2009.02.02 23:01:15
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カテゴリ:ブッダ達の心理学1.0
(part1)より続く
![]() 「進化の構造(part2)」 ケン・ウィルバー /松永太郎 1998/06 春秋社 単行本 547P 原書1995 ★★★★★ この本、脚注も含めると600ページに到る大書だが、本文は323ページまで。脚注だけでも数冊の本になるかという勢いがある。翻訳者・松永太郎は書いている。 本書の出版の後、ウィルバーは本書の縮約版ともいうべき「万物の歴史」、本書におけるビッグ・スリーの統合を扱った「宗教と科学の統合」、そして本書によって巻き起こった論争にい応えたKEN WILBER IN DIALOGUE などを次々と発表している。彼は、書くことを自分のダイモンと読んでいるが、その旺盛な創造力には驚くほかはない。p531 邦訳がでたのは1998年だが、原文は1995年である。 カルト宗教とは日本社会(だけでなく欧米各国においても)においていわゆる霊性、精神性に対するまもとでオープンな議論がほとんど抑圧された結果として起こった退行的な反動と考えることができる(私はケン・ウィルバーが「眼には眼を」のなかで展開した「新宗教における正当性、本格性、権威性」の議論が市民の間で共有されていれば、カルトの悲劇は防げたと思う。)カルト宗教が結果としてもたらしたのは、超越を求めるいかなる試みも、すべて非常に「危険」であるという、フラットランドにとっての改めての確認であった。p536 「眼には眼を」邦訳は1987年、原文「Eye to Eye」は1984年にでている。「眼には眼を」はまだ読んでいないが、ここで松永が「議論が市民の間で共有されていれば、カルトの悲劇は防げたと思う」とひいきのひいき倒しのようなことを書いているが、状況はそれほど甘いものだったのだろうか。 もし仮にその言に正等性があったとして、それでは松永はどのように「カルトの悲劇」を予見し、それを「防ぐ」手立てを講じたのであろうか。それに一体ここで彼がいうところの「カルトの悲劇」とは何か。ここでは1998年という時代性を考えれば、「麻原集団事件」をことを指しているに違いない。 何はともあれ、ケン・ウィルバーが展開したという「新宗教における正当性、本格性、権威性」とやらに目を通したあとに、もういちどこの問題については再考することにしよう。 曹洞宗の鈴木俊隆老子が初めて渡米して、アメリカの若者たちに禅を伝えたとき、その真剣さは、彼をしてアメリカに骨を埋める決心をさせた。名著である「初心禅心」の初心とは、初めて禅を学ぶアメリカの人々の真剣さを語っている。こうした若者のなかにウィルバーもいた。あるいはロバート・サーマンのような本格的なチベット仏教の修行者で研究者や、ジョージ・ヒュエルシュタインのようなヨーガの研究者をはじめとする多くの人々がいる。p541 ロバート・サーマンの「現代人のための『チベットの死者の書』」は最近邦訳がでた。ケン・ウィルバーの研ぎ澄ましたような鋭利な感性ではあるが、そのバックボーンがこのような形で紹介されることは、より立体的なウィルバーの姿を理解していくうえで、有効だと思う。 翻訳者・松永はあとがきで最後にこう言っている。 個人的には、本書を「般若心経」の巨大な注解である、と考えている。p547 うまくまとめたつもりでいるのだろうけれど、どうもここも納得はいかない。もしその言に妥当性があるのなら、般若心経を理解しておれば、ケン・ウィルバーは不要ということになる。ケン・ウィルバーには他にない独自性があり、他にない可能性が秘められている。般若心経があろうかなかろうが、ケン・ウィルバーには拠って立つべき地平がある、と私は考える。 さて、そうは言いつつ、著者自身の言説に触れることを忘れている。まぁなにはともあれ、付箋だらけの読書であり、部分的に抜書きしたところで、あまり意味がなさないような状況となっている。もうすこし著者一連の読書を進めながら、いずれはこの書も再読することになるのだろう。 差異を消失させることなしに、スピリットにおいて統合される--そこには真の「自己」(究極の「私」または仏(ブッダ))としての、最高の「真実」(究極の「それ」または法(ダルマ))としての、そしてすべてを包括する一切衆生のコミュニティ(究極の「私たち」または「僧伽(サンガ)」としての、多者のなかの一者がある。p298 ケン・ウィルバーの言説を借りれば、このブログでは、アガータ=私(仏)、人々=私たち(僧)、彼=それ(法)、というトリニティも成立するのであり、もちろん、このブログの目的は、ケン・ウィルバー研究でもなければ、般若心経の注釈でもなく、この独自なトリニティの自己理解にこそあることは言を待たない。 この項、つづく、かも・・
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2009.02.02 23:06:44
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2007.09.03
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![]() 「構造としての神」 超越的社会学入門 ケン・ウィルバー /井上章子 1990/08 青土社 単行本 264p 原書1984 ★★★★☆ このエントリーは1024個目。1024B = 1KB(キロバイト)ということである。このブログのカテゴリにおいて、一つの括りを100にしようとしたのだが、どうも収まりが悪く、それぞれが108づつでまとめることになった。こちらのほうがなんとなくすわりがいい。 そこで、ブログ全体での括りを考えてみたら、1000というより、どうやら1024のほうがよさそうだ、と思い立った。だから、とりあえず、このブログでは、1024冊の本を読むことによって、一つのステージを終わることにする。 もっとも、現在のところは、いろいろな雑記が交ざっているので、正確な数字は分らないが、多分900冊前後についてこのブログで触れてきていることになると思う。現在、振り返って、一覧表にまとめている最中。振り返るといろいろな思いがあるが、それはあとで書こう。 ケン・ウィルバーのこの本は、ネットで検索してみたが、表紙の画像がでてこない。それだけ古いということか、あるいは人気がないか、話題にならなかったのか。いや、そんなことはあるまい。このブログにおいては、「ブッタ達の心理学」カテゴリは、このウィルバーで108に達することになるようだ。 中沢新一は、縄文時代の地図を持って(だったかな?)自転車で東京の街をアースダイバーしていたけれど、このブログでは、さしずめ、ウィルバーの地図をもって、パソコンをいじりながら、ライブラリー・ダイバーをしていったら、面白いかもな、と思う。 この「構造としての神」は、青年としての著者の研ぎ澄まされた感性がひしひしと伝わってくる。ちょっと鋭敏すぎるがゆえに、ひ弱な感じがしないでもないが、この感性が、「グレース&グリット」を経て、インテグラル思想とやらに成熟していく過程としてみたら、興味深い一冊ではある。
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2009.02.10 08:10:03
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2007.09.01
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2007.08.31
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![]() 「万物の歴史」 ケン・ウィルバー /大野純一 1996/12 春秋社 519p 単行本 原書 A Brief History of Everything 1996 ★★★★☆ ケン・ウィルバーを読んでいると、パソコンのマニュアル類などを最初のページから読んでいるかのような錯覚を覚える。通常は、あれほど分厚いマニュアル類の全文を読むユーザーもいないだろうし、読む必要もない。また、マニュアルを読まずとも、直感的に使えているものに関しては、あえて文章で確認する必要もない、というのが当たり前の感覚だ もちろん、どこかでつまづいたら、索引から探し出して、自らの不明な点を読み込み、操作しなおしてみるという作業には、マニュアルは不可欠だ。全部を読む必要はないけど、きっとすべてのことについて書いてあるに違いない、という信頼感、それに似たようなものがケン・ウィルバーの著書にはある。 あるいは、保険証券の細かい箇条書きにも匹敵するかもしれない。どこに重点があるというわけでもないのだが、均質な濃度と量をもって書き連ねてある。反面、文章化されているもの以上のものはなにもない、というようなちょっと高飛車な雰囲気がないわけでもない。 ケン・ウィルバーの著書にはスピリットという単語がたくさんでてくる。、例えば「科学と宗教の統合」などでは「スピリット」となっているものが、本書では「<霊>」となって「スピリット」というルビが振られている。二冊が発行された時期には2年の隔たりがあるが、語源は同じものだろう。訳者によっては、雰囲気がだいぶ変わるものだ。 私、私たち、それ、などのビック・スリーに関する部分は相変わらずだ。この本、1996年に英文で書かれ、翻訳も1996年に出ている。他書にくらべたら、異様な早さだといえなくもない。当時の日本の社会は麻原集団事件で右往左往していた時代だ。本書を出版する緊急性が、当時の担当者間にあったのかもしれない。 P461以降の「インターネット」に触れたあたりはちょっと興味深い。96年といえば、いかなアメリカといえど、Win95が発売になって、まだインターネットの幕開けもほんの始まりの時代だったにすぎない。Linuxの成果も十分評価される前であり、Googleでさえ、まだその予兆さえ感じられない時代だ。 ネットとはたんに新しい技術--基盤(右下)なのです。ですから、それを使用する意識に対しては中立的なのです。すべて右側の道にある構造は、中立的で、価値から逃れています。コンピューター・テクノロジー(と情報化時代)が意味するものは技術基盤が世界中心的な視点、グローバルな意識を支えうる、ということであって、それを保証するものではまったくないのです。認識的な手段の発達は、いつも拡大する近くの本来の梯子を昇ろうとする熱意の先を越してしまうのです。ネットは可能性を提供しますが、実現の保証はしません。 ネットがグローバルな意識と同じだと見ることができない理由はここにあります。道徳段階1の人三千万が自我中心的な道徳を拡大する手段を与えられたらどうなると思いますか。ナチスがネットを持って何かいいことがあるでしょうか。P461 ネットはそれ自体では内面的な変容を保証するものではなく、たんに外面的な社会構造にすぎません。グローバルな意識への変容については、言わずもがなです。ネットはたんに独白的(単一論理的)構造です。そこに流れているのは、さまざまなタイプの内面です。しかしこうした内面の質については、問題はまったく別になるのです。このことはネット自体の構造では触れることさえできません。p462 ほとんどの人々は、残念なことに、まだ前慣習的、習慣的な知覚様態にあり、自我中心、自民族中心的です。どんなシステム地図も、インターネットも自動的にこれを変えさせることはできない。内面的な変容を促進することはできないのです。むしろほとんどの場合、逆であって、退行または停止に力を貸してしまうのです。世界中心的な手段がそれ以前の段階の個人に提供された場合、そうした手段はたんにそれ以前の世界観を推進するために利用なし悪用されるだけです。ナチスがネットを持ったら狂気したでしょう。p463 ここにおける著者のネットの<統合性>に対する態度は、否定的だ。たしかにグローバルな知性や覚醒の統合には、ケン・ウィルバーのような研ぎ澄まされた感性と、実践される<善>によってこそ、可能であるといえるかもしれない。しかし、ここからすでに10年が経過した。著者がなんと言おうと、時代は<統合>の方へ動いている。ネット社会には、その必要とされる知性や覚醒が芽生えてきているのか。あるいは、ダークサイドにおちているのか。 本書は、Q&Aスタイルをとっており、話し言葉口調と、ですます調で書かれているので、その内容はともかくとして、読みやすい一冊となっている。
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2009.02.10 08:15:28
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2007.08.27
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![]() 「統合心理学への道」 「知」の眼から「観想」の眼へ ケン・ウィルバー/松永太郎 2004/04 単行本 599p 原書The Eye of Spirit: An Integral Vision for a World Gone Slightly Mad 1997 改定2000 ★★★★★ この本も日本語版は2004年にでているが、原書は1997年にでており、2000年にでた改定版の一部を補記する形で翻訳されている。この本で重要なポイントはそう多くない。その補記された部分にこのような文章がある。 1983年、私は、自分を「トランスパーソナル」心理学者、ないし哲学者と呼ぶのをやめた。そして自分の仕事を「統合的」ないし「統合」と考えるようになった。そのため、まず統合心理学のテキスト『システム・自己・構造』を書き始めた。この二巻本は、様々な理由で出版されることはなかった。2000年、私はより簡略化した統合心理学のアウトラインを一巻本で出版した。それには『統合心理学---意識、スピリット、心理、セラピー』という適切なタイトルがつけられている。本章はその本の要約であり、したがって、現在の私の心理モデルの要約でもある。P446 なるほど、そういわれて初めて気がつくことも多くある。まず1986年当時、発売と同時に購入した『無境界』には、ウィルバーのプロフィールとして、「十年たらずのうちにトランスパーソナル心理学最大の論客となる。ニューエイジの潮流全体に対しても造詣が深く、最も良質なニューエイジの理論家でもある。」と紹介されている。あるいは、『アートマン・プロジェクト』のサブタイトルも「精神世界のトランスパーソナル理論」となっており、そもそも、ウィルバーが日本に紹介された時点から、ややゆがんだ角度でその人物像に脚光が浴びせられていた、ということになる。 『グレース&グリッド』の中で生前の妻トレヤも「ケンは日本で熱狂的に読まれているけれど、「ニューエイジ」派とみなされているらしい。そう聞いてケンはひどく憤慨した。」と述懐していたが、日本においてウィルバーが、ニューエイジの旗手のような売られ方をしていることに強い不快感を示していた。今回この部分を読んで、やはりそうだったのか、という思いがする。さらに原注では次のように補完している。 特にこのことが起きたのは『構造としての神』を出版したときのことである。それ以前の二冊の著書『アートマン・プロジェクト』と『エデンから』には、それぞれ「トランスパーソナルな視点」および「人間の進化のトランスパーソナルな視点」という副題がついていた。(二冊セットとして書かれたものである。『構造としての神』には「トランスパーソナル社会学への序章」という副題がついていた。しかし、その頃でさえ、トランスパーソナルという分野は問題性を帯びていた。私は、この分野に悪意を持っているわけではない。しかし私自身が行っていることが、いかなる意味でもトランスパーソナル心理学あるいはトランスパーソナルな何かに限定されているものではなかった。したがって、私は「超越社会学への序章」と副題を変え、1983年までにはトランスパーソナルという用語を自分の仕事の定義としては使わなくなったのである(むろん、超-意識的な領域を示す場合には使う)。p582 私は読んでいないけれど、ウィルバーの処女作の日本語訳『意識のスペクトル1・2』でさえ、1985年に発行されているのだから、最初の最初から、曲解された紹介のされ方がされていたのだ、ということができるかもしれない。訳者はあとがきでいっている。 このような形で風呂敷を広げてしまうと、それはもう、ウィルバーがはじめに意図したいわゆる「トランスパーソナル心理学」とはまったく異なったものとなる。しかし評論家の海野弘のような人はその著書の中で、ケン・ウィルバーをニューエイジの代表的な理論家をしている。こういうイメージは、ウィルバーというよりは、その訳者やら紹介者が撒き散らしたものとして、抜きがたく付きまとっているのである。事情は、おそらくアメリカも同じだったのであろう。p593 この辺を読むと、つくづくそうだったのか、と納得する。もっともこの訳者(松永太郎)と私が同じ視点からそう思っている、という確認にはならないが、すくなくともアメリカにおいてもそうだったらしい、というイメージを膨らませてみれば、ある意味、いろいろな経過を経て、ようやく一連の著作の翻訳が出揃った今こそ、ウィルバーという人の世界に触れるよいチャンスになるのかもしれない。少なくとも、私にとっては、そのようである。 また、第3章のタイトル「眼から眼へ」は、原書では“Eye to Eye”である。これはウィルバーの前著のタイトルと同じものであり、同書は「眼には眼を」という邦訳題名のもとに刊行されている。しかし、本文を読めばすぐわかるように、原題は「肉の眼」から「知の眼」、「観想の眼」へと発達・成長していくプロセスを意味している。特に「知の眼」から「観想の眼」への移行を表わしているのであり、「眼には眼を」という日本語で言われるような報復的な意味合いは、まったくない。そればかりか、ウィルバーの意図を損なっている。あえて原文の意味を生かして「眼から眼へ」とした次第である。p598 この辺は、けっこう手厳しい。「眼には眼を」を訳したのは吉福伸逸である。彼には、近刊に「トランスパーソナルとは何か 増補改訂版」がある。ウィルバーを日本に紹介したとされる彼の最近の心境が何か書いてあるかもしれない。すくなくともこのブログでも漠然とトランスパーソナルなラインをなぞってきたが、ここに来て、風雲急を告げる可能性も出てきた。 この本には、チョギャム・トゥルンパの『シャンバラ---戦士の聖なる道』が紹介されれているが、この辺はわが意を得たりという感じがする。トゥルンパもウィルバーもボールダーを活動の重要な拠点のひとつとしていたことを考えれば、その親近感もあるのだろうが、私は、実はチベット密教を考えるならトゥルンパとダライ・ラマだけで足りるのではないか、などと割り切った考え方をするときがある。もちろんいままでもチベット本をいろいろ読んできたし、まだまだ読み込みたいものがたくさんあるが、シンプルに考えるなら、それは決して間違いではないようだ。 また、現象や真実を内面と外面、個人と集団に分けp17、p21、「私」「私たち」「それ」「それら」にわけているところが、興味深い。ここは今後、深い意味でこのブログとつながってくる。
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2009.02.10 08:19:12
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