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カテゴリ:ブッダ達の心理学1.0
「統合心理学への道」 「知」の眼から「観想」の眼へ ケン・ウィルバー/松永太郎 2004/04 単行本 599p 原書The Eye of Spirit: An Integral Vision for a World Gone Slightly Mad 1997 改定2000 ★★★★★ この本も日本語版は2004年にでているが、原書は1997年にでており、2000年にでた改定版の一部を補記する形で翻訳されている。この本で重要なポイントはそう多くない。その補記された部分にこのような文章がある。 1983年、私は、自分を「トランスパーソナル」心理学者、ないし哲学者と呼ぶのをやめた。そして自分の仕事を「統合的」ないし「統合」と考えるようになった。そのため、まず統合心理学のテキスト『システム・自己・構造』を書き始めた。この二巻本は、様々な理由で出版されることはなかった。2000年、私はより簡略化した統合心理学のアウトラインを一巻本で出版した。それには『統合心理学---意識、スピリット、心理、セラピー』という適切なタイトルがつけられている。本章はその本の要約であり、したがって、現在の私の心理モデルの要約でもある。P446 なるほど、そういわれて初めて気がつくことも多くある。まず1986年当時、発売と同時に購入した『無境界』には、ウィルバーのプロフィールとして、「十年たらずのうちにトランスパーソナル心理学最大の論客となる。ニューエイジの潮流全体に対しても造詣が深く、最も良質なニューエイジの理論家でもある。」と紹介されている。あるいは、『アートマン・プロジェクト』のサブタイトルも「精神世界のトランスパーソナル理論」となっており、そもそも、ウィルバーが日本に紹介された時点から、ややゆがんだ角度でその人物像に脚光が浴びせられていた、ということになる。 『グレース&グリッド』の中で生前の妻トレヤも「ケンは日本で熱狂的に読まれているけれど、「ニューエイジ」派とみなされているらしい。そう聞いてケンはひどく憤慨した。」と述懐していたが、日本においてウィルバーが、ニューエイジの旗手のような売られ方をしていることに強い不快感を示していた。今回この部分を読んで、やはりそうだったのか、という思いがする。さらに原注では次のように補完している。 特にこのことが起きたのは『構造としての神』を出版したときのことである。それ以前の二冊の著書『アートマン・プロジェクト』と『エデンから』には、それぞれ「トランスパーソナルな視点」および「人間の進化のトランスパーソナルな視点」という副題がついていた。(二冊セットとして書かれたものである。『構造としての神』には「トランスパーソナル社会学への序章」という副題がついていた。しかし、その頃でさえ、トランスパーソナルという分野は問題性を帯びていた。私は、この分野に悪意を持っているわけではない。しかし私自身が行っていることが、いかなる意味でもトランスパーソナル心理学あるいはトランスパーソナルな何かに限定されているものではなかった。したがって、私は「超越社会学への序章」と副題を変え、1983年までにはトランスパーソナルという用語を自分の仕事の定義としては使わなくなったのである(むろん、超-意識的な領域を示す場合には使う)。p582 私は読んでいないけれど、ウィルバーの処女作の日本語訳『意識のスペクトル1・2』でさえ、1985年に発行されているのだから、最初の最初から、曲解された紹介のされ方がされていたのだ、ということができるかもしれない。訳者はあとがきでいっている。 このような形で風呂敷を広げてしまうと、それはもう、ウィルバーがはじめに意図したいわゆる「トランスパーソナル心理学」とはまったく異なったものとなる。しかし評論家の海野弘のような人はその著書の中で、ケン・ウィルバーをニューエイジの代表的な理論家をしている。こういうイメージは、ウィルバーというよりは、その訳者やら紹介者が撒き散らしたものとして、抜きがたく付きまとっているのである。事情は、おそらくアメリカも同じだったのであろう。p593 この辺を読むと、つくづくそうだったのか、と納得する。もっともこの訳者(松永太郎)と私が同じ視点からそう思っている、という確認にはならないが、すくなくともアメリカにおいてもそうだったらしい、というイメージを膨らませてみれば、ある意味、いろいろな経過を経て、ようやく一連の著作の翻訳が出揃った今こそ、ウィルバーという人の世界に触れるよいチャンスになるのかもしれない。少なくとも、私にとっては、そのようである。 また、第3章のタイトル「眼から眼へ」は、原書では“Eye to Eye”である。これはウィルバーの前著のタイトルと同じものであり、同書は「眼には眼を」という邦訳題名のもとに刊行されている。しかし、本文を読めばすぐわかるように、原題は「肉の眼」から「知の眼」、「観想の眼」へと発達・成長していくプロセスを意味している。特に「知の眼」から「観想の眼」への移行を表わしているのであり、「眼には眼を」という日本語で言われるような報復的な意味合いは、まったくない。そればかりか、ウィルバーの意図を損なっている。あえて原文の意味を生かして「眼から眼へ」とした次第である。p598 この辺は、けっこう手厳しい。「眼には眼を」を訳したのは吉福伸逸である。彼には、近刊に「トランスパーソナルとは何か 増補改訂版」がある。ウィルバーを日本に紹介したとされる彼の最近の心境が何か書いてあるかもしれない。すくなくともこのブログでも漠然とトランスパーソナルなラインをなぞってきたが、ここに来て、風雲急を告げる可能性も出てきた。 この本には、チョギャム・トゥルンパの『シャンバラ---戦士の聖なる道』が紹介されれているが、この辺はわが意を得たりという感じがする。トゥルンパもウィルバーもボールダーを活動の重要な拠点のひとつとしていたことを考えれば、その親近感もあるのだろうが、私は、実はチベット密教を考えるならトゥルンパとダライ・ラマだけで足りるのではないか、などと割り切った考え方をするときがある。もちろんいままでもチベット本をいろいろ読んできたし、まだまだ読み込みたいものがたくさんあるが、シンプルに考えるなら、それは決して間違いではないようだ。 また、現象や真実を内面と外面、個人と集団に分けp17、p21、「私」「私たち」「それ」「それら」にわけているところが、興味深い。ここは今後、深い意味でこのブログとつながってくる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.10 08:19:12
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