地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

全108件 (108件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 ... 11 >

osho@spiritual.earth

2009.01.13
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カテゴリ:osho@spiritual.earth

<15>からつづく

「英知の辞典」 <16
OSHO, スワミ・アナンド・ソパン 1996/05 めるくまーる 単行本 579p

  沈黙 SILENCE

 沈黙は知性の爆発だ。沈黙とは、あなたは内側では広々とした空間の広がり、遮(さえぎ)るもののない広々とした空間の広がりだということだ。沈黙とは、心(マインド)のすべての家具が片づけられてしまったということだ---思考、欲望、記憶、空想、夢---あなたはそのすべての家具を片づけてしまった。あなたは<存在>をじかに、直接にのぞき込んでいる。あなたは自分と<存在>との間にいかなるものもさしはさむことなく、それとふれあいを持っている。それが沈黙だ・・・・。

 それがここで起こっているのを経験できるとき----あなたは沈黙を聞くことができる。それを聞くとき、そこには即座の理解がある。理解は影のように沈黙について来る。

 言葉を理解したり、言葉を聞いたりすることは実に簡単なことだ。それは誰にでもできる。言葉についての少しばかりの教育が必要なだけで、大したものはいらない。だが、沈黙を聞き、沈黙を理解するにはとてつもない変容が必要だ。沈黙は神を理解するにはなくてはならぬもの、真理を知るにはなくてはならぬものだ・・・・。

 ここで私とともにあること、サニヤシンとしてあることは、静かにあることを学ぶことだと、ごく簡単に定義できる----それは私とともに沈黙のうちに坐ることだ。私がこれほど多くの言葉を使っているのは、ひとえにこれらの言葉があなた方に透き間を与えることができるからだ・・・・。

 私の言葉はあなた方を目覚めさせておき、その言葉と言葉のあいだで、私はあなた方に透き間を与える。そしてそれらこそほんとうのもの、本質的なものだ。次のことばを待ちながら、あなたは沈黙に耳を傾けなければならない・・・・。

 この状況全体が、あなた方は少しばかりの沈黙を手渡すために使われている。私はあなた方が沈黙を聞けるようにするために、沈黙を理解できるようにするために話しているということは、新参者には実に奇妙に見えることだろう。だが、ブッダたちはつねにそのようにやってきた。 OSHO
THE WILD GEESE AND THE WATER

 

 私はいつでも、どんなときでも沈黙している。たとえ話しているときでも、私は沈黙している。なぜなら、話すことは私の沈黙を妨げないからだ。話すことによって妨げられるようなら、その沈黙には価値がない。私の沈黙は充分大きい。それは言葉を含むことができるし、それは話すことを含むことができる。私の沈黙は十分に大きい。それは何によっても妨げられない。私の沈黙は言葉を恐れない。

 あなた方は沈黙して、話そうとしない人たちを見たことがあるだろう。彼らの沈黙は話すことに対立しているように見える----話すことに対立している沈黙はいまだに話すことの一部だ。それは不在であって、実在ではない。話すことの不在は私の沈黙ではない! 私の沈黙は実在している。それはあなたに語りかけることができるし、あなたのための歌を歌うことができる。私の沈黙にはとてつもないエネルギーがある。それは空白ではない。それは満ちあふれている。 OSHO
YOGA:THE ALPHA AND THE OMEGA,Vol、7

p414

 

<17>につづく







Last updated  2009.01.24 21:54:18
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2009.01.12
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​<再読>よりつづく​

「狂人ノート」 <3>
Osho マ・アナンド・ナルタン訳 和尚エンタープライズジャパン 1991/5


どうか、狂人の言語を理解してほしい。
もし”馬鹿者”という言葉を理解したかったら、
ドストエフスキーの「プリンス」(白痴)をよみなさい。
いや、ミハイル・ナイミの
「ミルダッドの書」のほうがいい。
これは比類ない本だ。
ひとつひとつの言葉が、純粋な理解そのものだ。
甘美だよ。
とくに、おまえたちも知っているように、わたしは糖尿病で苦しんでいるからね。
「ミルダットの書」は、糖尿病に苦しんでいる者たちみんなにいい。
砂糖はまったく入っていないにもかかわらず、じつに甘美だから。
「ミルダッドの書」は馬鹿について語っている。
馬鹿とは、たんに単純で子供のようで純粋無垢を意味する。
p135

 

 オーム マニ パドメ フム

 このマントラは、チベットで幾千年にもわたって唱えられてきた。が、これはチベットのなかでしか唱えられない。というのも、
彼らだけが、ヒマラヤの偉大な高み、純粋さを知っているからだ。
その純粋さは、ほかの誰も知ることができないものだ。
チベットは、世界中で宗教にもっとも近づいた唯一の国だ。
チベットが今、コミュニストの手の内にあるのは、なんと不運な、この上もなく不運なことだ。
彼らはチベットを破壊している。

 これは、精髄そのもの、究極の善だ。
「ミルダッドの書」はこういう時に案出されたにちがいない。
こういう瞬間にできた本はごく少ない。
  p139


 わたしはまた、ミハイル・ナイミの「ミルダッドの書」を思い出した。この本はまったく信じられないような本だ。
わたしは、一人の人間にだけは、ミハイル・ナイミにだけは嫉妬を覚える。
ふつうの意味合いでの嫉妬ではない。
ふつうの意味合いでの嫉妬は、わたしには感じられないからだ。
彼がすでにこれを書いたという意味で、わたしは嫉妬する。
さもなければ、わたしが書く。
わたしは、これを書いていただろう。
これは、わたしが飛翔しているのと同じ高度に関することだ。
 これらの高みから、わたしは存在全体を、
ひとつの遊びとして、祝福として、意味もなく美しいただの祝祭として、道理も見筋もない、なんの意味もない遊びとして、観ることができる。
そうだ、これこそおまえたちにも知ってもらいたいことだ。
人々はクリスマスを祝う・・・・彼らは、一年中祝っているべきだ。
時々しか祝わないというのは、その生が祝祭の生ではないことを示しているにすぎない。  
​​​​​​​​​​​p160

​​<4>につづく​​
​​​​​​​​​​​

 

オム  パド フム 







Last updated  2018.03.24 14:33:33
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<28>よりつづく

「私が愛した本」 <29> OSHO

 維摩経

 4番目。4番目の名前を口に出す前に、私は存在に対して途方もない感謝を感じている・・・・。これから私が話そうとしている人は、数を超えてしまった人、ヴィマルキルティ(維摩)だ。その本の書名は「ニルデッシュ・スートラ(維摩経)」だ。私たちの仲間のヴィマルキルティが唯一のヴィマルキルティではない。実際は、これからお前たちに話そうとしているこのヴィマルキルティにちなんで私は彼にこの名を付けた。この人の言明(ことば)は「ヴィマルキルティ・ニルディッシュ・スートラ」と呼ばれている。「ニルデッシュ・スートラ」とは、「指針」ということだ。

 ヴィマルキルティは、最も驚嘆すべき人のひとりだった。仏陀でさえ、この人には嫉妬したであろう。彼は仏陀の弟子だったが、一度も正式に弟子になったことはなかった。彼は、表面上は一度も仏陀の得度を受けていない。しかも彼は、仏陀の弟子がひとり残らず恐がっていたほどに、恐るべき人間だった。みんなは彼が仏陀の弟子になることを望まなかった。ただ道で出会ったり、挨拶を交わしたりするだけで、維摩は何か人の度肝を抜くようなことを言うのだ。ショックを与えるのが彼の方便だった。グルジェフなら彼のことを大好きになっただろう。あるいはもしかしたら、グルジェフさえ度肝を抜かれたかも知れない。この人は本当に恐ろしい。ほんものの男だった。

 ヴィマルキルティが病気になり、仏陀がシャーリプトラ(舎利弗)に、老人を見舞って様子をきいて来るように頼んだという。シャーリプトラは言った。「これまで御意志に背いたことはないのですが、今回はそうさせていただきます。あの人は本当に恐ろしい。たとえ臨終の床にあっても、あの人は私に面倒を起こすでしょう。私は行きたくありません」

 仏陀がみんなに尋ねると、ひとりマンジュシュリ(文珠)を除いて、誰も行こうとしなかった。この人は仏陀の弟子の中で最初に光明を得ることになる。彼は出かけた。そうしてこの本が生まれた。この本は対話だ。私たちのヴィマルキルティはこの人にちなんで名付けられた。その最初のヴィマルキルティが死の床に伏せっていた。そこでマンジュシュリが彼に質問している。あるいはむしろ、この人の質問に答えている。こうして「ヴィマルキルティ・ニルデッシュ・スートラ(維摩経)」は生まれた。本当に偉大な本だ。

 この本がどの宗教にも属さないため、気にする者は誰もいないようだ。これは仏教徒の本ですらない。彼が仏陀の正式な弟子だったことがないからだ。人はあまりにも形式に敬意をはらい、その精神を忘れる。私はこの本を、真の探究者すべてにすすめる。読む者はここに、ダイヤモンドの鉱山を見つけるだろう。 OSHO p143

<30>につづく 







Last updated  2009.01.17 11:41:57
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2009.01.09
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<27>よりつづく

「私が愛した本」 <28> OSHO

 僧燦(そうさん)

 さて、私の仕事が始まる・・・・、何というジョークだ! あらゆるジョークの中のジョークとは、中国の賢者僧燦(そうさん)が、私の意識の扉をノックしていたということだ。こういう神秘家というのはあんまりだ。彼らがいつ人の扉を叩き始めるか、こちらには決して分からない。ガールフレンドと愛を交わしている最中だって、僧燦(そうさん)はやって来てノックし始める。彼らはいつでも、どんな時にもやって来る。エチケットなどまるで信じていない。しかも彼は、私に何と言っていたと思う? 「なぜ、私の本を入れなかったのかね?」と言っていたのだ。

 何とまた、まさにその通りだ! 私が彼の本をリストに入れなかったのは、まったく単純な理由で、彼の本がすべてを含んでいるからだ。彼の本を入れれば、もう他には何もいらない。そうなれば他にはどんな本も必要ない。僧燦(そうさん)だけで十分だ。彼の本は「信心銘(シンシンミン)」と呼ばれる。信(シン)は、英語の「罪(シン)」のようにではなく、h-s-i-nと書かれなければならない・・・・これで中国語がわかったわけだ! 何という罪の犯し方か! 信(シン)とは・・・・、「信心銘(シンシンミン)」。

 オーケー、僧燦(そうさん)、あなたの本も入れた。これが今日の私の最初の本になる。申し訳ない。これは私の最初の最初の本になるべきだった。しかし私はもう20冊もの本について話してしまった。がそんなことは問題ではない。私が言ってあろうとなかろうと、「信心銘」こそ一番先だ。第1番だ。

 「1番目」、デヴァギート、大文字で書きなさい。

 「信心銘」は実に小さな本だ。だから、いつか自分よりあとにグルジェフが「森羅万象」という本を書くと知っていたら、僧燦(そうさん)は笑っただろう。そのタイトルこそ彼自身の本に属するものだからだ。しかもグルジェフは1000ページも書かねばならなかったが、それでも僧燦(そうさん)のわずかな言葉の方がはるかに人を貫き、はるかに意義深い。それは直接人のハートに届く。

 私にはあの音さえ聞こえる。僧燦(そうさん)の言葉がお前たちのハートに届く音ではなく、ねずみか悪魔が仕事をしている音だ。彼には彼の仕事をさせておこう。

 僧燦(そうさん)の本はほんとうに小さい。ちょうど「イーシア・ウパニシャッド」くらいなのだが、それよりもはるかに意義深い。こう言うとき、私の胸は痛む。というのも、私としては「イーシア」が究極の本であってほしいからだ。しかし私にどうしようがある? 僧燦(そうさん)がそれを打ち負かしてしまった。「イーシア」が打ち負かされたことで、そしてまた僧燦(そうさん)が勝利を得たことで、私の両目に涙が溢れる。

 その本は実に小さい。掌に書くことができるほどだ。だがもし書いてみようとするのなら、どうか覚えておいてほしい・・・・左手に書きなさい。右手に書いてはいけない。それでは冒涜になってしまう。「右(ライト)は正しく(ライト)、左は間違っている」と人は言う。私は、左は正しく、右は間違っていると言う。左こそ、人の中の美しいものすべてを代表しているからだ。だから僧燦(そうさん)は左からしか入ることができない。私には分かっている。私は何千というハートの左から、左側から、女性の面を通って、<陰>の側から入って行ったからだ。私が言うのは中国の<陰>だ。私はこれまで、<陽>の側から人に入れたことがない。言葉そのものが誰をも妨げてしまう。<陽>は「近づくな!」と言っているようなものだ。それは、「止まれ。ここに入るな。離れろ! 猛犬注意!」と言っている。

 右はそんな具合だ。右は意識の間違った側に属している。役に立つが、召使としてにすぎない。それは決して主人になるべきではない。だからもし、僧燦(そうさん)の「信心銘」を書くのなら、自分の左の掌に書きなさい。

 これは実にすばらしい本だ。ひとつひとつの言葉が金言だ。削除しうるような言葉は、たったの一語も思いつかない。それは真実を語るために、まさに必要な、必須の言葉だ。僧燦(そうさん)は、途方もなく論理的な人間だったにちがいない。少なくとも、「信心銘」を書いている間は。

 私はこの本について、話したことがある。そして、あれ以上に話すことを愛したことはない。私の講話の最高の瞬間は、僧燦(そうさん)について話しているときだった。話すことと、沈黙がともにあった・・・、話していながら、しかも話していない。なぜなら、僧燦(そうさん)は話さないことでしか説明されえないからだ。彼は言葉の人ではなかった、沈黙の人だった。彼はまさに最小限を語った。許してくれ、僧燦(そうさん)。私はあなたを忘れた。あなたのおかげで、扉を叩いて私の午睡を妨げるような2、3の本を思い出した。だからそれについても触れた方がいいだろう。

 1番目は僧燦(そうさん)の「信心銘」だ。  OSHO  p26

<29>につづく







Last updated  2009.07.08 09:04:59
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<26>よりつづく

「私が愛した本」 <27> OSHO

 前書き

 霊的な気づきと真理への旅は一人一人ユニークなものであり、その途上にはたくさんの出来事と脇道があって、私たちを次から次へと停滞期へ連れ込むように思われる。恋人、時々のトリップ、事故、何もかも粉々に打ち砕くような彼方なる「何か」の突然の一瞥、そして探究が始まる。

 私たちはあちこちと目をやり、自分が何を求めているのかを正確に知らぬながらも、何処かで何かの助けが得られるだろうと期待し、信頼しながら、あの道この道と辿る。「これでもない、あれでもない」が私たちをさらなる探究に導く絶えざる道連れになる。するとある日、道しるべを探していると、信じられないような道路地図が手にはいる。「私が愛した本」こそそれであり、またそれ以上のもの----光明を得た導師OSHOから自然に送られた、人間意識への比べるものもない案内書だ。光明を得た導師以外の誰が、知恵の真珠、真理のダイヤモンドが見つかる所を知っているだろうか?

 数年前、OSHOは、自分があらゆる道を探検し、この地上の人間の知恵と経験の香りを集めるためにあれほど強烈に読書をしたのは、それを自分の弟子や他の人たちに与えることができるようにと思ってのことだったと語った。

 「私は・・・・それぞれの世紀に別々の人間意識の開花によって放出されたあらゆる香りを一つに集めようとしている。老子は一つの花であり、仏陀も、イエスも、モハメッドもそうだ。しかし私たちは今、彼らの香りを一つに----宇宙の香り----に融け込ませなければならない。その時初めて人間は宗教的であってしかもなお分裂せずにいられるようになる・・・・すべてが自分のものになる。あなたは広大になる」OSHO Tao:The Pathless Path Vol.1

 考えられる限りの主題についての世界的著作を何十万冊と読んだOSHOは、インドのプーナでなされた講話の中でそれらの本について語って、その香りを分かち与えた。

 一冊目の僧燦(そうさん)による「信心銘」から、最後の一冊アラン・ワッツの「本」まで、時には私たちの既知の著者からの、時には聞いたこともないような神秘家や詩人からの珍しい贈り物を選んで、OSHOは私たちを比類なき発見の旅へと連れて行く。

 「私が愛した本」そのものがひとつの「コイヌール」だ。私たちを旅に案内し、一つの鍵----自分自身の内なる宝物蔵----に導くためにOSHOによって与えられた、輝かしいダイヤモンドだ。

スワミ・アナンド・マデャーパ   p4

<28>につづく







Last updated  2009.01.10 01:08:28
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2009.01.08
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<25>よりつづく

「私が愛した本」 <26> OSHO

 マハリシ・ラマナ

 5番目は、マハリシ・ラマナの本だ。それは本というほどのものではない。「私は誰か」と題された小さなパンフレットにすぎない。

 ラマナは学者でもなかったし、教育も受けていなかった。わずか17歳のときに生まれ故郷を後にし、二度と戻らなかった。本当のふるさとを見つけたとき、誰が生まれ故郷など戻るだろう? 彼の方法は、「私は誰か?」と問いかける、自分の内奥の核に向っての素朴な探求だ。彼こそは「エンライトンメント・インテンシブ」の本当の意味での創作者だ。その発明家のふりをしているどこかのアメリカ男や、アメリカ女などではない。

 私はこれはたいそうな本ではないと言った。だがその人間は偉大だ。時には私は、小人物、ごく月並みな人間によって書かれた偉大な本を挙げることもある。今私は、ごく小さな本、ほんの2、3ページのパンフレットを書いた本当に偉大な人物に触れている。これ以外は、彼は常に沈黙していた。彼はごくわずかしか、ほんの時たましか話さなかった。カリール・ジブランなら、もしマハリシ・ラマナの所に行っていれば、途方もない恩恵を受けることができたはずだ。そうすれば彼は「大師の御声」を聴くことができただろう。マハリシ・ラマナもまた、カリール・ジブランによって得るところがあっただろう。なにしろジブランは、比類のない書き手だった。ラマナは貧しい書き手だった。カリール・ジブランは貧しい人間だったが偉大な書き手だった。このふたりがいっしょになれば、世界にとっての祝福になっただろうに。OSHO   p157

 <27>につづく







Last updated  2009.01.10 00:09:49
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2009.01.07
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<24>よりつづく

「私が愛した本」 <25> OSHO

 ルバイヤット

 
6番目、私は「ルバイヤット」も忘れていた。目に涙が溢れてきている・・・・ほかの何を忘れても私は謝ることができるが、「ルバイヤット」では駄目だ。オマール・ハイヤーム・・・・私にはただ声をあげて泣き、涙を流すことしかできない。涙で謝罪することができるだけで、言葉ではどうしようもない。「ルバイヤット」は、世界中で誤解され、かつ最も広く読まれている本のひとつだ。それはその翻訳で理解され、その精神では誤解されている。翻訳者はその精神を翻訳に移すことができなかった。「ルバイヤット」は象徴的だが、翻訳者は非常に気真面目な英国人だった。アメリカでなら「スクエアー」と呼ぶ、まったくヒッピー的ではない人間だ。「ルバイヤット」を理解するには、すこしばかりヒッピー的なところも必要だ。

 「ルバイヤット」は酒と女性以外何も語らない。それは酒と女性を歌う。翻訳者たちは----たくさんいるが----みんな間違っている。彼らは間違わざるをえない。なぜならオマール・ハイヤームはスーフィーだからだ、タサウフのひと、知り得たる人だからだ。女性を語るとき、彼は神について語っている。それは、スーフィーが神に呼びかけるときのやり方だ・・・・。「愛する人よ、おお、私の愛する人よ」と。彼らはいつも、神に対して女性形を使う。これは記憶しておくべきことだ。世界中で、人類と意識の全歴史の中で、神を女性として呼びかけた者は他にはいない。スーフィーだけが、神に恋人として呼びかける。そして「葡萄酒(ワイン)」とは、愛する者と愛される者との間に起こるものを指している。それは葡萄とは何の関係もない。愛する者と愛される者との間に起こる錬金術、弟子と師(マスター)との間に、求める者と求められる者との間に、崇拝者と神との間に起こるもの・・・・その錬金術、その変成、それこそが葡萄酒だ。ルバイヤットはあまりにも誤解されている。おそらく、だから私は忘れたのだろう。 OSHO p19

<26>につづく







Last updated  2009.01.08 20:02:27
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<23>よりつづく

「私が愛した本」 <24> OSHO

 スーフィーの「本」

 どうやって私はあの究極の本、スーフィーの「本(ザ・ブック)」を忘れることができたのか。おそらく私が忘れたのは、あれがただ白紙のページだけで、中に何もないからだろう。1200年間の間スーフィーたちはこの上もない尊敬をこめて「本」を持ち運び、そのページを開いてはそれを学んでいる。彼らが何を学んでいるのか人は不思議に思う。長い間白紙のページに向かっていれば、人は自分自身に戻って来るほかはない。それこそが本当の研究----仕事(ワーク)だ。

 どうして私に「本」を忘れることができたものか? 今となっては、誰が私を許すだろう? 「本」は、最後にではなく最初に言及されるべき本だった。それは超えられることのない本だ。何も含んでいない本、そして無のメッセージを伝えている本以上の本をどうして創ることができる?

 無(ナッシングネス)とは、お前のノートでは、デヴァギート、もの---ではない---こと(ノー・シング・ネス)、と書くべきだ。そうしないと無という言葉は消極的な意味に、空っぽの意味になってしまう。が、そうではない。その意味は「充実」だ。空っぽという言葉は、東洋ではまったく違った文脈を持っている・・・・シュンニャータだ。(中略)

 東洋ではシュンニャータ----空----という言葉は、英語の「空っぽ」のことではない。それは充実、あふれるほどの充実のことだ。あまりに充実しすぎてそれ以上何も必要がないということだ。それがこの「本」のメッセージだ。どうかこれをリストの中にいれてもらいたい。

 一番目は、スーフィーの「本」だ。 OSHO           p16  

<25>につづく







Last updated  2009.01.08 03:00:41
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2009.01.04
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<22>よりつづく

「私が愛した本」 <23> OSHO

 カリール・ジブラン その2

 9番目・・・・またまたカリール・ジブランに戻ってくる。私は彼を愛して来たし、できることなら助けてやりたかった。これまで待ってもいたのだが、今のところはまだ生まれていない。彼は、未来の誰かほかの導師を求めなければならなくなるだろう。「漂泊者」が、私がこの番号に選んだ本だ。

 カリール・ジブランによる「漂泊者」は寓話集だ。寓話とは意味の深いことを言うための最古の手法だ。言いえないことも寓話の形でなら表現できる。それは小さな物語のすばらしいコレクションだ。

 私もまた何というペテン師だろうね。目を閉じていても、デヴァギートが何かを言おうとしているのが見える----それどころか、彼は足まで使っている。これはあまり紳士のやることではない。しかも師(マスター)の後ろで・・・・どうしようというのかね? 世の中はこうしたものだ。

 これはすばらしい、アシュ。番号を私に思い出せてくれないか。

 「9番目について話しているところでした、Osho」  p161

 

 10番目、カリール・ジブランによるもう一冊の本、「霊の言葉」だ。さて、私は異議を称えなければならない。それがたとえ私が愛するカリール・ジブランに対する異議であってもだ。彼が「霊(スピリチュアル)の言葉」と書くことは許されない----霊(スピリチュアル)の? それはすばらしい本ではあるが、カリール・ジブランは、それを「美しい言葉」と名付けたほうがよかった・・・・美しくはあるが、霊的ではない。それを霊的というのはただ馬鹿げている。しかしそれでも私はこの本を愛している。まさに私があらゆる馬鹿げていることを愛しているように。

 私はテルトゥリアヌスを思い出した。この人の本は----申し訳ないが、私は入れなかった。それを全部入れることは私にはできなかったが、少なくともその名前に触れておくことはできる。テルトゥリアヌスの有名な言葉は、「クレド・クア・アブスルドゥム----不合理故に吾信ず」だ。世界中のすべての言語において、これ以上に意味深長な言葉はほかにないと思う。しかもこのテルトゥリアヌスは、キリスト教の信者ときている! そうだ、素晴らしいものなら私は評価する・・・・たとえキリスト教の聖者であろうと。

 「クレド・クア・アブスルドゥム」----これはダイヤモンドで書かれるべきだ。金文字でも足りない。金では安すぎる。この「不合理故に吾信ず」をいう言葉はそれほどにも価値がある。テルトゥリアヌスなら「愛の言葉」と題する本を書けたかも知れないが、カリール・ジブランには無理だ。

 カリール・ジブランは瞑想すべきだ。彼が瞑想すべき時がきている。私が話を止めるべき時が来ているように・・・・だが50という番号を完成しなければならないという単純な理由で、私は止めるわけにはいかない。 p162

 

 9番目・・・・。私はいつもカリール・ジブランを評価してきた。彼を非難する前に、もう一度彼を評価しておきたいと思う。心配しなくていい。私はこの「非難する」という言葉をただ軽く使っているのではない。文字通りの意味で言っている。9番目は、カリール・ジブランの本「散文詩集」だ----すばらしい。現代社会では、ラビンドラナート・タゴール以外には、誰もこのような散文詩集は書けない。ふたりとも英語圏の人でないのは奇妙だ。おそらくは、だからこそ彼らは、あのような詩的言語を書くことができたのだろう。ふたりは別な言語の出身だ。カリール・ジブランはアラビア語だが、この言語はこの上もなく詩的だ、純粋な詩だ。そしてラビンドラナートはベンガル語だが、これはアラビア語よりもっと詩的だ。実際、もしふたりのベンガル人が喧嘩をしているところを見たら、驚くだろう。互いに愛の言葉を交わしているのではないかと思うに違いない。彼らが喧嘩をしてるなどとはとても考えられない。喧嘩の中でさえ、ベンガル語は詩的だ。

 私はそれを自分で経験して知っている。私はベンガルで人が喧嘩しているのを見たことがある・・・・まさに詩だ! 私は驚倒した。マハラシュトラに行って、人がただ世間話をしているのを見たときは、彼らが喧嘩をしているのではないか?----警察に知らせなければならないのではと心配になったほどだ。マラティー語というのはそういう言葉で、甘いことなどとても言えない。荒くて、きつい言葉だ。闘う言葉だ。

 英語圏で、カリール・ジブランとラビンラナートのふたりが評価されているのは不思議だが、彼らはこのふたりから何ひとつ学んではいない。彼らはこのふたりの成功の秘密を学んではいない。何がその成功の秘密なのか? 彼らの「詩情」だ。 p209

 

 10番目。これは私が決して公には非難したくなかったカリール・ジブランによる本だ。私はこの男を愛しているからだ。だが、たとえ自分が愛している人間でも、その言葉が真実を表していないなら、私がその人間を非難することもありうることを記録しておくために、それをしなければならない。

 その本とは「思想と瞑想」だ。さて、この本には私は同意できない。そしてこの本ゆえに、カリール・ジブランが瞑想の何たるかをまるで知らなかったことが、私には分かる。この本の中の「瞑想」とは、「熟考」以外の何ものでもない。そうであって初めて、それは思想とともに並べられる。アシュ、お前は思考とともに行く必要はない。瞑想とともに行かなくてはならない・・・・私といっしょにだ、カリール・ジブランといっしょにではない。だからもっと高く行きなさい。それを達成しなければ、私はじきにこんなふうに話すことを止めてしまうつもりだ。私は自分の超越をあらゆる方法で主張したい。これまでにそれをした覚者(ブッダ)はひとりもいない。私はパイオニアでありたい。

 私は思考に反対であるがゆえに、この10番目の本に反対する。私はまたカリール・ジブランが「瞑想」という言葉を西洋風の意味に使っているということでも、これに反対だ。西洋では、瞑想とは単に、あることについて集中して考えるという意味にすぎない。それは瞑想ではない。東洋では、瞑想とはまったく考えないことを意味する。それは「あれやこれやについて」とは何の関係もない。それは対象を持たない。その中にはどんな対象もない、純粋な主体性だけだ。ゼーレン・キルケゴールは、「人間の内奥の核は純粋な主体性だ・・・・」と言った。それこそが瞑想の何たるかだ。p210

<24>につづく







Last updated  2009.01.10 22:11:32
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2009.01.03
カテゴリ:osho@spiritual.earth

<21>よりつづく

「私が愛した本」 <22> OSHO

 カリール・ジブラン その1

 2番目、カリール・ジブランの「預言者」だ。私がたやすく「預言者」を落としてしまったのは、これがニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の反響にすぎないという単純な理由による。我々の世界では誰ひとり真実を語るものがいない。我々はあまりにも嘘つきで、あまりにも形式主義的で、あまりにも礼儀正しい。「預言者」はツァラトゥストラを反響しているために美しいだけだ。p18

 

 9番目。私は再び、カリール・ジブランのもう一冊の本「人の子イエス」を入れたい。これはほとんど無視されている本だ。キリスト教徒がこの本を無視するのは、イエスを人の子と呼んでいるからだ。彼らは無視するだけではなく非難している。そしてもちろん、ほかの誰がイエスのことなど気にする? キリスト教徒たちが自らこれを非難しているというなら、ほかにそんなものを気にする者がいるはずもない。

 カリール・ジブランはエルサレムのすぐ近くで生まれ育ったシリア人だ。実際、シリアの丘の人びとは---少なくとも一部の人びとは---いまだにイエスが使っていた言葉であるアラム語を話している。あの高く聳える糸杉のまっただ中にいれば誰でも---馬鹿でも---驚きの目をみはり、神秘的な気分になるに違いない。カリール・ジブランは、シリアで、星に向って伸びるあの糸杉の下で生まれた。彼は真のイエスを表現することにおいてきわめて近くまでいっている。福音書を書いた4人のいわゆる弟子たちよりは近い。あれは福音(ゴスペル)というよりは、噂話(ゴシップ)だ。カリール・ジブランの方が近い。だがキリスト教徒たちは、彼がイエスのことを人の子と呼んでいるがゆえに腹を立てた。私はこの本が大好きだ。

 この本は、いろいろな人たちのイエスに関する話を物語る。人夫の、農夫の、収税人の、そうだ、収税人の話まで入っている---男の、女の、あらゆる人たちの話だ。まるでカリール・ジブランがたくさんの人びとにイエスのことを---キリスト教徒のイエスではなく、本当のイエスを---肉体を持った実際のイエスのことを尋ね回っているかのようだ・・・・そしてその話が実に素晴らしい。ひとつひとつの話にじっくりと瞑想する必要がある。「人の子イエス」が、私の今日の9番目の選択だ。
p132

 

 10番目。カリール・ジブランによるもう一冊の本「狂人」だ。これを除外することはできない。もっとも、正直言うとそうしたかったのだが。これを除外したかったのは、私自身が彼が言っている狂人だからだ。だがこれを除外することはできない。カリール・ジブランは、その狂人の、まさに内奥の核について実に意味深く、真摯に語る。そしてこの狂人は、普通の狂人ではない。仏陀、臨済、カビールのような人だ。どうしてカリール・ジブランにこんなことができたのか、私はいつも不思議に思っている。彼自身は、その狂人ではなかった。彼自身は、光明を得た人ではなかった。彼はシリアに生まれたが、不幸にもアメリカで暮らした。

 だがそこには驚きに次ぐ驚き、解答のない疑問がある。どうやって彼はそれをしたのか? 多分、彼はそれを自分でしたのではない・・・・おそらく何かが、誰かが---スーフィーたちがヒジラと呼ぶ者が、神智学の徒がK・H、すなわちクート・フミと呼ぶ者が---彼に乗り移っていたに違いない。彼は乗り移られていた。だがいつでもではなかった。書いているとき以外は、彼はごく平凡な男だった。実際、いわゆる平凡な人よりももっと平凡だった。嫉妬や怒りや、あらゆる種類の激情でいっぱいだった。だがときたま彼は乗り移られる。上からの力に乗り移られる。そうすると彼を通して何かが流れ始めた。絵画が、詩が、寓話が・・・・。p133

 

 3番目。カリール・ジブランは、自分の母国語でたくさんの本を書いた。彼が英語で書いたものはよく知られている。もっとも有名なのが「預言者」と「狂人」であり、ほかにもたくさんある。だが彼は自国語でもたくさん書いており、翻訳されているものは少ない。もちろん翻訳は同じではありえないのだが、カリール・ジブランは実に偉大で、その翻訳書の中にも価値あるものを見つけることができる。今日はその2、3の翻訳書に言及しよう。3番目は、カリール・ジブランの「預言者の園」だ。これは翻訳書だが、私に偉大なエピクロスのことを彷彿させる。

 これまで私以外にエピクロスのことを、偉大な、と呼んだものは誰もいないと思う。時代を通じて彼は非難されてきた。だがある人間を大衆が非難するときには、その人間には必ず、どこか偉大なところがあるということを私は知っている。カリール・ジブランの「預言者の園」という本は、私にエピクロスのことを思い出させる。それは彼が自分のコミューンを「庭園」と呼んでいたからだ。人間は一事が万事だ。 プラトンは、自分のコミューンを「学院(アカデミー)」と呼んだ。当然だ。プラトンは学士院会員(アカデミシャン)であり、偉大な知識人、哲学者だった。

 エピクロスはそのコミューンを「庭園」と呼んだ。彼らは樹の下、星の下で生活した。あるとき、この上なく楽しげなその人たちの暮らしぶりを聞きつけて、国王がエピクロスに会いに来た。国王は、なぜそこにいる人たちがそんなにも幸せなのか、そのわけが知りたいと思った。一体どんな理由がありうると言うのか? 何しろ彼らは何ひとつ持っていない。王にはわけが分かならなかった。彼らは本当に幸せそうで、歌い、踊っていたからだ。

 国王は言った。

 「余はお前とお前の仲間たちに会えて実にうれしい。エピクロス、何か欲しいものはないか?」

 「もう一度来てくださるようでしたら、バターを少し持って来ていただけますか。なにしろここの連中は、もう何年もバターを食べていないものですから。みんなパンにバターもつけずそのまま食べています。それともうひとつ、またいらっしゃるのでしたら、今度はそんなふうに見物なさるのではなく、少なくともここにいるしばらくの間、私たちの仲間になられるといいでしょう。参加して、私たちのひとりになられるがいい。歌って踊ることです。私たちの所には、あなたに差し上げるものは他に何もないのですから」

 カリール・ジブランの本は、私にエピクロスのことを彷彿させる。私はエピクロスに触れられなかったことを残念に思う。だがその責任は私にはない。エピクロスの本は焼かれた。キリスト教徒の手によって滅ぼされた。昔あったその写本はすべて、何百年も前に破壊された。だからエピクロスの本について触れることはできない。だがカリール・ジブランとその「預言者の園」を通じて、私はこの人を含めた。

 4番目・・・・グッド・・・・。カリール・ジブランのもう一冊の翻訳書「大師の御声」だ。原書は非常にすばらしい本に違いない。とういうのは、翻訳書でさえ、そこここに美の痕跡が、足跡が残されているからだ。だがそれはそのはずだ。カリール・ジブランが話していた言葉はイエスの言葉にきわめて近い。ふたりは隣人だ。カリール・ジブランのふるさとはレバノンだった。彼はレバノンの丘、ヒマラヤ杉の下で生まれた。これはこの世で最も大きな樹木だ。レバノンのヒマラヤ杉を見たら、「樹木とは、星に到達しようとする大地のあこがれだ」というファン・ゴッホの言葉を信じることができる。それは何百フィートにも達する樹齢何千年という樹だ。

 カリール・ジブランは、ある意味でイエスを代表している。彼はイエスと同じ領域に属する人間だ。彼は救世主(キリスト)ではなかったが、そうでありえたかも知れない。孔子とまったく同じように、彼も逃した。ジブランが生きているときにも、会いに行くことのできた導師はいた。だがこのかわいそうな男は、うす汚れたニューヨークの路地をさまよっていた。彼はマハリシ・ラマナの所へ行くべきだった。マハリシ・ラマナは当時まだ生きており、キリストのような人間、仏陀のような人間だった。p155

<23>カリール・ジブランその2につづく







Last updated  2009.01.10 22:09:08
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