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カテゴリ:osho@spiritual.earth
グルジェフ 9番目・・・・。私はグルジェフと彼の本「森羅万象(オール・アンド・エブリシング)」(邦題「ベルゼバブの孫への話」)について言うのを忘れていた。たぶんこれが実に奇妙な本で、読むことすら不可能な本だからだろう。私は、今生きている個人で、私以外にこれを最初のページから最後のページまで読み切った者はいないだろうと思う。私はグルジェフの信奉者には何人にもあったが、彼らの中には「森羅万象」を全部読み通すことができた者はひとりもいなかった。 これは大書だ。「イーシア・ウパニシャッド」とちょうど正反対で、1000ページの本だ。しかもグルジェフはああいうならず者の聖者だ・・・・どうかこの「ならず者の聖者」という表現を許してもらいたい。彼は読むこともできなくなるようなやり方で書く。ひとつの文章が数ページにもわたって続くこともある。その終わりまで来たころには、初めの方は忘れてしまう。しかも私と同じく、彼は自分の造語を使う。奇妙な言葉をだ・・・・。たとえばクンダリーニについて書いていて、彼はそれを「クンダバッファー」と呼んだ。それが彼のクンダリーニを表す言葉だった。この本は途方もない価値をもっている。だがそのダイヤモンドは、ふつうの石ころに混じって隠れている。人はそれを探し出さなければならない。 私はこれを一度ではなく、何度も読んだことがある。その中に入って行けば行くほど、私はますますこれが好きになった。というのは、このならず者のことが分かれば分かるほど、知るべきではない人間たちから彼が何を隠したかが、ますます理解できるようになったからだ。知識は、まだそれを吸収する力がない者たちのためのものではない。知識は軽率な者たちには隠しておかなければならない。それは、それを吸収することができる者たちだけのためのものだからだ。それはそのための準備ができている者たちにのみ与えられなければならない。それこそが、こんな奇妙なやり方でものを書いた目的だ。グルジェフの「森羅万象」よりも奇妙な本は他にない。そして確かに、これは何もかも全部(オール・アンド・エブリシング)だ。 Osho p21
5番目、私はグルジェフの本「注目すべき人々との出会い」に触れることができないのではないかと心配していた・・・・ありがたいことに、この追々補で挙げることができる。 これは大変な著述だ。グルジェフは世界中を旅した。特に中東とインドだ。彼はチベットにも行った。それどころか、彼は故ダライ・ラマの先生だった。今のではなく---あれは馬鹿だ---前のダライ・ラマだ。チベットのグルジェフの名前は、ドルジェブと書かれている。だからたくさんの人が、ドルジェブとは誰か別人だと思った。彼は、ゲオルギー・グルジェフ以外の誰でもない。なぜならこの事実が英国政府に知られていたからだ---グルジェフが何年間もチベットにいたということ、チベットどころか、何年間もラサの宮殿に住んでいたという事実が---英国はグルジェフが滞在するのを拒んだ。グルジェフは最初、英国滞在を望んだが、許可されなかった。 グルジェフはこの本「注目目すべき人々との出会い」を回想録として書いた。それは、彼が自分の人生で出会ったあらゆる不思議な人々に対する途方もない尊敬の想いをこめた回想だ・・・・。スーフィーたち、インドの神秘家たち、チベットのラマ僧、日本の禅僧たち・・・・。私は、グルジェフが全部を書いてはいないことを言っておかなければならない。グルジェフがたくさんの人たちをそこからはずしたのは単純な理由だ。この本は市場に出すためのものだった。だからそれは、市場の要求を満たすものでなければならなかった。私には誰の要求を満たす必要はない。私は市場のことなどぜんぜん気にするような人間ではない。それゆえ私は、彼は本当は最も注目すべき重要な人々をそこからはずしたと言える。しかしいずれにせよ、彼が書いたものはやはりすばらしい。それですら、私の目に涙を浮かばせる。何か美しいものがあると、いつも私の目は涙で溢れる。それ以外に褒め称える言葉がない。 これは研究すべき本で、ただ読むべき本ではない。英語には「パト」に当たる言葉がない。それは「生涯にわたって、毎日、同じことを読みに読むこと」という意味を表すヒンディ語だ。それは読書という言葉では翻訳できないものだ。特にペーパーバックの本を一度読むだけで投げ捨てたり、あるいは列車に置いて来るというような西洋の読書という言葉には。それはまた、研究という言葉にも翻訳できない。研究とは、単語あるいは語句の意味を理解するための集中した努力だからだ。「パト」は、読書でも研究でもなく、それ以上のものだ・・・・それは喜びにあふれて、それが自分のハートにしみとおるまでに、自分の呼吸になるほどにも喜びにあふれて復唱することだ。それには一生かかる。そしてもし本当の本を、グルジェフの「注目すべき人々との出会い」のような本を理解したいと思うなら、それこそが必要なことだ。 それは、アメリカ人カルロス・カスタネダが創作した仮空の人物である「ドン・ファン」のようなフィクションではない。この男は人類に対する大いなる害をなした。人は霊的虚構(スピリチュアル・フィクション)を書くべきではない。その理由は単純で、人々が霊性(スピリチュアリティ)とは虚構にほかならないと考え始めるからだ。「注目すべき人々との出会い」は、真実の書だ。グルジェフが触れている人々の何人かはまだ生きている。その2、3人に、私は自分で会っている。私は、あの人たちが仮空の人物ではないという事実を証人だ。もっとも私は、彼が出会った最も注目すべき人々をはずしたということで、グルジェフを許すことができないのだが。 世間に妥協する必要などない。どんなものにも妥協する必要はない。彼はあれほどにも強い人間だった。どうして彼が妥協したのか、なぜ彼が、本当はいちばん重要な人々を除外したのか、私は不思議に思う。私はあの本から除外した2、3の人々に会っている。その人たち自身が、グルジェフがそこに来ていたと私に語った。その人たちは今では非常な老齢だ。だがやはりあの本は言い---中途半端で不完全なものだが、価値がある。 Osho p173 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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