作家の赤川次郎氏は、安倍首相の安全保障政策を消防隊の活動に例える発想の幼稚さについて、2日の東京新聞コラムに次のように書いている;
<こちら特報部>(7月6日朝刊)で取り上げられた社会派アイドルグループ(?)「制服向上委員会」は、福島第一原発の事故の後、「ダッ! ダッ! 脱・原発の歌」を歌っていて、私も新聞コラムで取り上げたことがある。
「忘れないから
原発推進派
安全だったら
あなたが住めば良い」
と、歌詞もまことに明快。しかし、この歌がテレビで流れることはない。
日本では芸能人が政治的発言をすることはタブーとされてきた。アメリカで大統領選挙のとき、ハリウッドのスターたちが支持候補を公表するのとは対照的だ。映画が文化として成長してきたアメリカに比べ、日本では「興行」という面が強く、娯楽の王様だった時代、その利益で新しい才能を発掘したりする代わり、不動産投資などに熱中して古い体質が変わらなかった。
芸能人は権威に弱いといわれてきた。十代のアイドルたちから、その世評を変えていってほしい。高校生ともなれば、歴史を学び、世界情勢を把握して、社会のあり方に発言できて当然である。
「脱・原発の歌」の率直さに比べて、安倍首相の「安保関連法案を分かりやすく説明する」というたとえ話の稚拙さはどうだろう。軍備を「戸締まり」にたとえるのは、首相の友だちの作家、百田尚樹氏もやっているが、鍵やカンヌキで人は殺せない。軍隊は「自衛のため」の名目で他国を侵略できる。軍隊が戸締まりなどでないことは歴史が示している。
また出演したテレビでは、自衛隊を消防隊にたとえたというが、軍隊は火炎放射器で家を焼きつくすことはあっても火を消すことは決してない。それとも、江戸時代の火消しのように、家を壊して延焼を防ごうとでもいうのだろうか? 次は「まとい」を持って屋根の上にでも現れるかもしれない。
「反省しても謝罪しない」という戦後70年の首相の歴史認識に比べ、印象的だったのは、南米を訪れたローマ法王フランシスコの演説である。15世紀以後のスペインなどの中南米征服での「先住民に対しての犯罪行為」をはっきりと謝罪したことは、カトリックの総本山として、勇気ある発言だった。
500年前の歴史も、今と無縁ではないという自覚。たった70年前の戦争を、「そのとき生まれていなかったから責任はない」と平然と言ってのけた女性議員との何という違い。
日本を戦争へと向かわせる法律が強行採決されれば、それは間違いなく「歴史的な出来事」として記録される。議員たちにその自覚があるのか。
安倍首相も自分の論理が破綻していることは分かっているから「私は総理大臣ですから」と発言したのだろう。だって、英語で言えば「アイアム・ソーリー」…。え? 違う?
(作家)
2015年8月2日 東京新聞朝刊 5ページ「新聞を読んで - 過去にどう向き合うか」から引用
一国の首相でありながら論理の破綻した発言を繰り返して、それでも首相の座に安住できるというのは、一見平和に見えて実はこれは深刻な問題である。この記事では「そのとき生まれていなかったから責任はない」と言ったのは女性議員となっているが、多分、安倍首相も同じ考えに違いない。彼は「侵略戦争の謝罪」という負担を将来の子孫に負わせるべきではないなどと言ったらしいが、そんな殊勝なことを言うには、安倍首相の代であらゆる戦争責任をきれいに清算しなければならない。それを出来もせずに「将来の子孫に負わせるべきではない」などと言っても、誰も聞く耳を持たないだろう。少なくとも南京大虐殺記念館を訪れて花輪を献花し、土下座して謝罪でもしないことには、侵略戦争の被害者は納得しないと思う。