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Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2021年04月16日
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カテゴリ:絶対存在論
神の存否-26
 スピノザのエチカの第一部「神の定義」の「第六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
 説明 私は「自己の類において無限な」とは言わないで、「絶対に無限な」と言う。なぜなら、単に自己の類においてのみ無限なものについては、我々は無限に多くの属性を否定することができる〈(言いかえれば我々はそのものの本性に属さない無限に多くの属性を考えることができる)〉が、これに反して、絶対に無限なものの本質には、本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属するからである。
 此の「第六:神とは、絶対に無限なる実有」に関して、先ずその「絶対に」の語彙を問えば、通説では、他に比較するものや対立するものがない意で用いられます。即ち、一にして他者がないことを強調する意味合いなのでしょう。スピノザの「無限なる実有」に冠して用いられれている「無限」の意を問えば、古代ギリシァ哲学では、アナクシマンドロス( Anaximandros/紀元前610年頃 - 紀元前546年)により万物の根源としての「無限者(ト・アペイロン)」が主張され、また他の哲学者たちによって一般に世界は無限に近いものであると考えられ、中世では、キリスト教神学において神は無限であるのに対し、宇宙は有限的な完結した世界であるとされていました。しかし時代を経て、中世末期から近世初めにかけて、ニコラウス・グザーヌス、ブルーノ等により再び世界は時間・空間的に無限であるとされています。カントでは、純粋理性の二律背反として世界が時空間的に無限であるか否かが問題とされましたが、ヘーゲルは、悪若しくは否定的)無限と真無限とが区別します。カントルやデデキントからは、集合論の立場から有限集合・無限集合・真無限・仮無限の問題が考察されました。東洋思想に於いても、中国やインドなどでは古くから有限・無限の思想がみられ、老荘思想の荘子では、我が生は有涯にして、知は無涯なりとも表現されています。スピノザの「無限」の語彙は物質や精神のみならず人間の認識や象徴を超えたものと意識しているようです。然し乍ら、後半の真の認識として「直覚知」を持ち出している部分は、日本の西田幾多郎にも影響を与えたところが鑑みられ、スピノザの「無限」は神の属性無しには考えられるものではないということを示します。では、世界の物理化学理論の最先端を行く量子宇宙論は「無限」を如何様に捉えているのでしょうか。


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最終更新日  2021年04月16日 06時10分04秒
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