カテゴリ:絶対存在論
神の存否-66
スピノザの定理八では、すべての実体は必然的に無限であることから、更に、同じ本性を有する実体は一つしかないことを他の仕方で結論することができる。これをここに示すことは徒労ではないと思う。しかしこれを秩序だててするためには次のことを注意しなくてはならぬ。として念を押し、更なる注意を促します。同じ本性を有する実体は一つしかないことを他の仕方で結論づけようというのです。スピノザ思考からは 現代の科学理論である多元宇宙は読み取れません。仮に多元宇宙が事実であったとしても、其々の宇宙は法則を異にした世界であると予想されるからです。此の論を受け入れれば実体の複数を容認することになります。何れにしろ、スピノザは実体一元論を視点を変えて説きます。 注意 一、おのおのの物の真の定義は定義された物の本性のほかは何ものも含まずまた表現しない。このことから次のことが出てくる。 二、定義は定義された物の本性のほかは何ものも表現しないのであるからには、いかなる定義もある一定数の個体(*)を含まずまた表現しない。例えば三角形の定義は三角形の単純な本質のみを表現し、決してある一定数の三角形を表現しない。 (* 個体とは一つの類に属する個物のことと解される。) 三、存在するおのおのの物には、それが存在するある一定の原因が必然的に存することに注意しなければならぬ。 四、最後に注意すべき点は、ある物が存在するその原因は、存在する物の本性ないし定義自身のうちに含まれているか(これは存在することがその物の本性に属する場合である)、そうでなければその物の外部に存していなければならぬということである。 以上の前提から、もし自然の中にある一定数の個体が存在するとしたら、なぜそれだけの個体が、そしてなぜそれより多くもなく少なくもない個体が存在するかの原因が、必然的に存しなければならぬことになる。例えば、もし自然の中に20人の人間が存在するとしたら(いっそう分かりやすくするため私はこれらの人間が同時に存在しかつこれまで自然の中に他の人間が存在しなかったと仮定する)、なぜ20人の人間が存在するかの理由を挙げるためには一般に人間本性の原因を示すだけでは十分でないのであって、その上さらに、なぜ20人より多くもなく少なくもない人間が存在するかの原因を示すことが必要であろう。各人にはなぜ存在するかの原因が必然的に存しなければならぬのであるから(注意三 存在するおのおのの物には、それが存在するある一定の原因が必然的に存することに注意しなければならぬ。により)。ところがこの原因は(注意二 定義は定義された物の本性のほかは何ものも表現しないのであるからには、いかなる定義もある一定数の個体(*)を含まずまた表現しない。例えば三角形の定義は三角形の単純な本質のみを表現し、決してある一定数の三角形を表現しないおよび、注意三 存在するおのおのの物には、それが存在するある一定の原因が必然的に存することに注意しなければならぬ。)、人間の真の定義が20人という数を含まないゆえに、人間本性そのもののうちに含まれていることはできない。したがって(注意四 最後に注意すべき点は、ある物が存在するその原因は、存在する物の本性ないし定義自身のうちに含まれているか(これは存在することがその物の本性に属する場合である)、そうでなければその物の外部に存していなければならぬということである。により)なぜこれら20人の人間が存在するか、したがってまたなぜ彼らの一人ひとりが存在するかの原因は、必然的に各個人の外部に存しなければならぬ。この理由からして我々は一般的にこう結論しなければならぬ、すべて本性を同じくする多数の個体が存在しうるような物は、その存在のために、必然的に外部の原因を持たなければならぬのであると。 哲学・思想ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月01日 06時02分42秒
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